赤川 生き物救出作戦
10時集合で赤川、鶴羽橋下の堰堤ブロック改修現場へ。
工事にともなって死滅するおそれがある魚類や昆虫を安全な場所へ移す作業のボランティアである。
ドブナガをはいて大きな網を持ち、それにはいるようにして足でごろごろと砂利や石を転がす。網をあげると、カジカ、ヤツメウナギ、ハヤ、などが4,5匹、かかっている。全部で20名ぐらいだったろうか。大物狙いの人は大型のナマズやウナギをごろごろと網にいれ、アカザという貴重な魚もとらえられた。食べ頃サイズのカジカがたくさんいた。川沿いの土を手で掻いているとぼろぼろと小型のヤツメウナギがでてきた。全部まとめて上流の安全なとことへ放流。
赤川に、こんなに多様な魚類がいて、生態系が営まれているということ。現場で改めて知った。実に有意義な2時間だった。
赤川の再生事業の一環としての魚道づくりということだそうだが、工事関係者、魚類研究者などが一緒になってこうした事をおこなう意義はあると思う。
しかし、本当にこの再生事業が「自然再生」という名にふさわしい事業なのか、
更にチェックをしていきたい。
寒だら祭りなどなど。
寒だら祭り。11時過ぎにいったら役所の駐車場は満杯。旧荘内病院駐車場へ、好天気に恵まれて例年の2割増しの大盛況とか。良かったし、どんがら汁はとても美味かった。弁慶結びにきなこモチなど食す。会場。いい笑顔が広がっていた。新たな試みのおきつねはんもその隣のお菓子ブースも含め、とてもいい仕掛けではなかったか。なかなか良かったのではないでしょうか。途中川端とおり近くの大判焼きを買って帰路へ。
なんといっても美味いもんはいいですな。
その後、寒梅忌に寄ってから6コミ新年会へ。テーブルを回っていると朝日新聞の特集記事へのご意見などを多数頂く。
もう一つの生き方
今日、5時46分。鶴岡。私の事務所コモンズでテレビをつけ、神戸の方向を向いて黙祷する。6434名の犠牲。がれきの山の町。サイレンとヘリコプターの音 黒々とした煙。遺体。絶望的な情景は今でも心に焼き付いている。そしてこの日。毎年ろうそくの炎を見ながら、一瞬のうちに消えてしまった命と、あの社会を振り返る。
「ボランティア元年」という言葉を生み出し、「神戸から未来が見える」と現在、朝日新聞の報道局長の外岡さんは書いた。あのとき見えた光は今、どうなのか。
市民社会の到来を、希望の光として見ていたあの頃予期したような社会になっているのだろうか。
今朝のNHKの番組で当時 ちびくろ救援隊を組織し、一緒に活動していた村井さんがNGO CODEの代表としてとても大切なメッセージを発信してくださった。「絆」と「もう一つの生き方」という事だ。
中越で元気に活動している良太君の姿もカメラは捉え、着実に支援をおこなっているなあと感動したし、CODEの仲間たちのとてもいい顔が、テレビに映されることはとてもうれしい。
元気村の時、テント生活150日、スーパーハウスに1年半。暮らしながらも僕らの心は何か満たされていた。全国から集まる寄付金で、なんとかかんとかやりくりをし、日々の活動を続けていた。アルバイトをするよりも、今、神戸にどれだけ愛を注げるか
。そうした意志をもって行動するか。なんて、まともに考えて、日々を過ごしていた。
今、僕はそのときの気持ちのまんまで、ダム反対運動も、地下水保全の活動も、平和の活動も、理不尽を指摘し変える活動も、そして市議会議員の活動もやっているつもりだ。
もう一つの生き方。金が真ん中にあるのではない。愛が真ん中にある活動。その行動に一歩踏み出した時のエネルギーの高まりと、それを受け止めてくれたときの感動
そして同じ思いでつながる絆。
米国サンフランシスコのNPOにインターンしたとき。このエネルギーのまんま、それを職業として闊歩する多くの人たちに出会った。社会をよく変えることが職業。
ほぼ普通の会社の給料と同じぐらいの給与で、実に堂々と、活動をしているスタッフたち。米国の社会がすべていいわけではないが、お手本はいろんなところにあるのだ。
震災から12年目。彼らとももう一度情報交換をしながらこの鶴岡、山形、そしてこの日本で何をすべきか考えていきたい
なお、神戸元気村、当時の映像をウェブ公開します。「もうひとつの生き方」というものに踏み出しはじめた僕が映っています。 どうぞご覧ください
→ちょっと長すぎて視聴困難とのことでしたので半分ずつ二分けました。今度はご覧になれると思います。どうぞ。
http://homepage.mac.com/stern8/iMovieTheater30.html
http://homepage.mac.com/stern8/iMovieTheater31.html
http://homepage.mac.com/stern8/iMovieTheater29.html
阪神淡路大震災から12年
明日でもうあの阪神淡路大震災から12年となる。
1995年のあの日。僕は29歳、神奈川在住の一介のサラリーマンだった。
そのころ。3年半、編集部からはいった日本リサイクル運動市民の会。で、僕は有機野菜の宅配をするらでぃっしゅぼーやの神奈川センターの物流センターの立ち上げ要員で運輸の担当者になり1年半が経過していた。その頃は、ほぼ毎週のように神楽坂の会社のBFにあるエコロジーセンターで、長良川河口堰反対運動東京支部のミーティングを繰り返していた。そこに集まるみんなと、これも毎週末のように那珂川とか、気田川とか、ちょっと遠征して長良川とかに、ファルトボート(おりたたみのカヌー)でカヌーとキャンプに行くのがほとんど唯一といっていい楽しみだった。仕事よりも本当の楽しみは仕事の外にある。会社ではそんな、どちらかというとさえない社員だった。
1月17日。連休の朝だった。厚木のアパートで起きた僕はテレビ映像にはまった。がれきの山と火事。もうもうとあがる煙。「どこかの外国の町に違いない」「いやまてよ」「何!?」「神戸!?」僕はぴょんと飛び起きて、それから会社にいくのだけれど、頭は神戸の事一色。仕事に全く手がつかなかった。
神戸にもらでぃっしゅぼーやの支店があった。それと実はその代表の高見裕一氏は、神戸に事務所を構える現職の国会議員だった。
「神戸にいかせてください」僕はその日のうちに志願していた。
実は、神戸には僕の大親友がいた。「あいつが埋まっているかもしれない」
いくら電話しても連絡がとれなかったので、そういう気持ちがどんどん高まっていった。
1月19日。僕らは神奈川センターから5人の派遣団として大阪センター経由で神戸で支援活動をすることになる。20日。物資満載の2トントラックで西宮にはいる。ほとんどの木造家屋の一階部分がぺしゃんこになり、ビルが折れ曲がり。道路は崩れ、電車の線路はうねうねにひんまがっていた。サイレンの音。ヘリの音。まだもうもうと煙があがっているところもあった。ラジオでは、約二〇〇〇人とか三〇〇〇人とか犠牲者の数が発表されていた。どんどん犠牲者の数が増えてくる。はじめは会員さん宅に届けようとしていた物資だったが、どこに誰がいるのかなんてほとんどわからない。とにかく路上で暖をとっている人たちに物資を手渡していった。
西宮駅前に実家があった親友の家も訪れてみると、全壊家屋。「全員無事。●●●●にいます」の張り紙。ほっと一安心。その日。芦屋川より向こうは危険としていわれ、その日は断念。
一月二三日。三田市経由で電車をのりつぎ、大阪から三時間かけて新神戸に着く。「バウさんという市民運動をやっている人が御影でたきだしをはじめた。みんなで手伝おう」そんな指令。五人の派遣隊の一人として新神戸からR43号、R2号をつうじて、御影公会堂まで約四時間歩く。ビルが倒れている。線路がひしゃげている。路地に入るとがれきの山。ショールームのガラスが飛び散り見る影もない。電信柱が軒並み倒れている。至る所の道路が割れ、段差ができている。ラジオでは「医療、看護士など専門家の方以外は立ち入らないでください」などと流れていた。
ところどころで一斗缶に自分の家の柱をくべて、暖をとっている人の姿。声もかける気がしない。
黒こげになってまだくすぶっている一帯。深緑の制服とヘルメットの自衛隊が掘り起こししている現場。まだ誰か生き埋めになっているらしい。「こんなところに来て、僕らみたいなのが何の役に立つのだろう」御影というところに近づくにつれ、不安も増していた。
都市壊滅の中を歩いたこの四時間はまだ鮮明に心に焼き付いている。立派な道路もコンクリートのビルディングも、地震で崩れた。家具や家の柱やコンクリートブロックでつぶされた人たちは亡くなった。時には家とともに焼けた。灰燼と、絶望的な空気の中、どんどんその空気に飲まれるようにして歩く。サイレンの音。報道ヘリの音。
御影公会堂。ひげのバウさんに会う。とにかく握手。「なんとかしましょう」「なんでもやりますので言ってください」「今、みそ煮込みうどんつくってるねん」「は?」
と見るとでっかい寸胴とプロパンガスボンベと、五徳。一千人分ぐらいの食材。「今はあったかいものが大事や、一緒にやってくれるか」「はい、なんでも」
それまで作ったこともないようなみそ煮込みうどんを大鍋でつくる。無我夢中で、材料を切り、大鍋にいれていく。ようやくなんとかできた。
御影公会堂には当時約二千人もの方々が避難していた。「できたよー。」バウさん。ずーっと列ができる。数千人の人たち。おじいちゃんもおばあちゃんも、子供達も。血のりが顔についている人もいた。包帯の人も。みんなずっと並んで次々と僕らが今つくったみそ煮込みうどんを食べ始めた。「大丈夫かな 」僕らは正直不安だった。もちろん味に自信があるわけじゃない。食べ始めたおじいちゃんやおばあさん。
「おいしいなあ」「あったかいわ」「ありがとう」「ああ、やっとほっとした」
中には涙をためて、そういうおばあさんがいた。
肌寒い空の下、崩れたコンクリートのブロックに座り、お椀をかかえたおじいさんが、うつむいて、涙を流し、汁をすすりながら、ありがとう、ありがとうと何度もお礼をされた。
僕は、その瞬間の事を一生忘れないだろう。そして、その瞬間、何か僕の中でこれまでの人生では味わったことのない力に包まれていた。別次元のエネルギーのような感じで満たされていたのだ。
亡くなった肉親。倒壊した自分の家。「すぐ近くの小学校に家族の遺体があるんだよ」という人など深刻な状況の中、とにかくよそもののど素人がつくった味噌煮込みうどんは、なんと涙で迎えられた。
そして、その時、なんとこの鍋づくりに被災者でありながら、当初から関わってくれた人がいた。原さんというその界隈の世話役の方とそのご家族だった。ジャージ姿の原さんは、兄を震災で失ったといっていた。「でもいつまでの泣いていられへん。自分らが何かせんと」と言って「君らはそうか、東京の方から来たんか、ありがとうな」といって一心に一緒に鍋をつくった。原さんが声をかけてその親戚の方を含め七名。それから一週間以上もの鍋づくりをやり続けた。原さんとは初日からうち解けていろいろ話をした。
僕ら五名の派遣団は、その日は御影公会堂の中で被災者の方が使っていなかったホールの中の観客席で寝袋にくるまって寝た。そして朝起きると、鍋
歌会初め
朝。八文字屋でつじ立ち。雪多少。子供達が結構興味津々で聞いてくれていたのが印象的。結構力はいる。美しい国といいながら醜い国の様相になっている国の政治、穴あきダムに固執している、旧態然とした公共事業推進の県の姿勢。情報不透明、いまだに私立大学の研究所の研究員のお給料に、年間3億円、市税を投入している市の姿勢。
真実をきちんと語ると、やっぱりおかしいとしか思えないことを語り続けて1時間。
体の芯まで冷えるな、やはり今の時期。
さて、今日は皇室で年始めの歌会初めがあり、しばしテレビに見入った。
月はしづかに 天心に浮き
足早に 歩く我らを 見守らんとす 選者
ふり注ぐ 月の光に 照らされて
雪の原野の 木むろ 浮かびて 皇太子殿下
この2首が僕は好きだ。
秋田、仁賀保市のご住職で、「月山」をとりあげてくださった方もいらしてうれしかったかった。
特に皇太子がとりあげた一首は、スキーに行った際に見た、月夜に照らされた雪原の美しさの感動を表したものだそうだが、実に僕はぱあーっと情景が浮かんだ。青白く月に照らされて輝く雪原の美しさ。月に照らされて輝く木立とその影。これを眺めるには寒さをこらえて外にでるか、薄暗い部屋から外を眺めるか。殿下が実際、どうやってこの美しさにたどりついたのかはわからないが、なんだかこうした美しさを歌にしてくれた殿下に賞賛を送りたい気持ちになる。そうだな。雪国に暮らしている鶴岡人、山形県人、東北人の多くは共有できるかもしれない。それとこのさぶい雪国を訪れ、そして自分の目でその美しさを感じようとした人のみぞ知るというものかもしれない。
もう随分と前の話になるが、98年。旭硝子財団のブループラネット賞の受賞を米国環境保護活動家、デビッドブラウアーさんが受けたとき、帝国ホテルで受賞パーティがあった。日本側NGOのサポートとして参加していた僕のすぐとなりでブラウアーさんと結婚したばかりの殿下と紀子さまが談笑されていた。なんだかその時のイメージがこの歌に連動して思い浮かんだ。
日本の本物の美しさの保全と再生のために、行動する。
これが僕の当面のミッションだ。
選者の方の短歌はさすがの一言だが、時には、静かに僕らを見守る月を見上げ、月夜で輝く雪原や、月の光を浴びる事も大事にしたい。次の満月はいつだろうか。
さて、今日のニュースで山形県が鶴岡病院の老朽化の問題をとりあげ、来年度600万円を計上し、基本計画の査定にはいろうとしているとの報道があった。
精神医療、精神科の病院については、それこそ多様な声があるはずだ。今、いじめ、自殺、心の悩みは社会を包む大きな問題であり、僕はこうしたことにこそ、しっかりとした政策が必要だと考えている。
鶴岡病院の改築だが、場所はあそこで果たしていいのか。いまどき牢屋のような部屋でいいわけはない。最もいい隔離病棟のありようとはどうなのか。社会復帰のためのリハビリ施策のためにはどこがいいのか。などなど。課題は山ほどある。
患者にとって気持ちのいい施設であることはいうまでもないが、気軽にこうした病院に通院できる。また、決して差別的に扱われない。また本当に再生できる。
など、県内、市内でもそうだが、都会で悩んだり傷ついたりしたときにちょっと「鶴岡の病院にいって来る」といえる。実際長野あたりでそうした病院があるような事も聞いているが、そのために何をしなければならないのか。等々考えなければならないことがある。
これは市民の皆さんにとってもアイデアのだしどころだと思う。匿名でいいのでぜひ声をお寄せください。僕もこの重要施策。きちんと現場取材を続けていきたい。
ゆーたうん
旧櫛引町の温泉施設ゆーたうんはいい。ひさびさに行った。
羽黒のゆぽかもいいけれど、こうした温泉施設の中では僕は最も気に入っている。
気に入っている大きな要因は水だ。爽快感が他とどうも違う。
ここのサウナからでた後の水は飲める。「はー?」と思う方もいらっしゃるかもしれないが、「地下水です。検査の結果飲料できます」とサウナのとなりにある水風呂の蛇口に書いてある。実はここの地下水は元の鶴岡水道の水源だった地下水源とほぼ同じものだ。ちょっと上流だけれど。下流域のものはブルボンで採取して全国販売されているわけだから水のおいしさはお墨付きなのだ。
ここに来る方の常連客には、ペットボトルや20リットルぐらいのポリタンクを持参して、このサウナ隣の水を汲んでいく方が結構いる。
考えてみれば、こうした水風呂に入れる場所というのは全国見渡しても少ないのだ。
都会のサウナのほとんどは実に塩素臭い。あれで爽快感は半減する。
ここのサウナは別格だと思う。今日、久々に行ったのだけれど、「あれれ」と思うところがあった。サウナ用のタオルだ。サウナに入る時、お尻に敷くやつ。それが今までは無料で入り口にどんと山積みで置いてあって、自由に使うことができたのに、今日はそれがなかった。なんでも入場する際に2枚手渡されるといった方式になったとのこと。それを知らない僕はそれから受付のところに一度もどらなければならないことになった。こうなったのは。一人で何枚も何枚も使う人がでてきたから。ということだが、こんな事をケチったからってどうなるのか。と利用者のひとたちと盛り上がった。
クリーニング代が、、、等と言い訳されたらしいが、こんなタオルを業者のクリーニングに出す必要があるのだろうか。ドラム型の乾燥機一体型の洗濯機でも置いたらどうか? いやにいつになく力がはいるが、疲れた体を癒しに来る利用者のせっかくのささやかな楽しみが奪われるのはいかがなものか。ということだ。ちょっと調べてみよう。
原さんの運動。
10日の毎日新聞の山形版の特集。緑と生きる7 大規模林道その後 として、白鷹、葉山の自然を守る会の原敬一さんの記事が載っていた。
小国町から朝日町にかけて計画された大規模林道建設工事。
「キノコや山菜の宝庫で、きれいな水をもたらしてくれる恵みを壊すのは許せない」
「ブナの自然林を破壊するだけでなく、葉山の山頂にある葉山神社のすぐ横に林道が通ることは山岳信仰の破壊にもつながる」と訴え、反対運動の中心となった。
98年12月、林野庁は64キロの計画区間のうち約14キロ工事が進んだにもかかわらず、中止を決断。全国32箇所で計画された大規模林道で唯一の中止だった。03年に完成した14キロ部分は、毎年のように崩落などが起き、今も補修工事が続く。
中止決定後、守る会は小国町の愛染峠付近の工事のために伐採されたブナ林を復活させようと、行政に植林を訴え続けたが、認められなかった。
ーーーーーー原さんは「行政の(自然に対する)姿勢は変わっていない。何ら反省していない」と指摘する。
「大規模林道建設の受益者負担金の後年度負担も、県財政が最悪となった一因だ。環境基本計画を創り、一応はいい方向に行っているように見えるが、実質的には変わっていない」と行政へ苦言を呈する。「かけがえのない自然は、次の世代にも伝えて行かなくてはならない貴重な財産。行政がおかしなことをしたらこれからも声を上げていく。また、そうしたことが出来る人を育てたい」緑とともに生きていく姿勢はまっすぐだった」
ーーーーーーーーーーーーーーーここまで引用。毎日山形版
原さんの姿勢には本当に学ぶことが大きい。町職員として、不当な人事降格など、様々な圧力の中でも貫いていった意志。全国の市民運動にとっても、僕にとって、大きな影響を与えてくださった一人でもある。
本当に美しい、未来をつくるために、地球の声に応え、行動する。
原さんに続きたい。
今年は政権交代をみんなの力で!
朝。八文字屋の前に立つ。
今日から仕事始めの方もたくさんいらっしゃるかもしれない。今日のトピックスは「防衛庁が防衛省に今日なります」ということ。
今回の省への昇格について、保坂展人さんは、
「防衛省を発足させることができたことを首相として誇りとする。国防と国際社会の平和に取り組むわが国の姿勢を明確にすることができた」と安倍総理が挨拶したように、「省」に昇格したのみならず自衛隊の海外派遣を本来任務化したことが重要なポイントだ。「テロ特措法」「イラク派遣法」と、個別に立法してきた自衛隊の海外派遣を「恒久派遣法」に一括して行いたいという安倍政権は、自衛隊を常時海外に送り出して米軍と一体化した「軍事行動」を行う態勢も視野に入れている。省への昇格によって何がどうかわるのか。
とブログに書いている。
年末に強行採決された教育基本法、そして今回の防衛省昇格。それに安部首相が唱える「憲法改正」 戦争国家への道をばく進しているような気がしてならない。
国の政治は確実におかしな方向にどんどんひっぱられている、その以前に大前提として民主主義国家で、これだけ政権が交代しない政府というのは全くの不健全。
官僚べったりの政府与党姿勢では、矛盾も問題もまだまだ隠されたままだ。
政権交代のイメージとは、やはり、菅直人さんが厚生大臣になったときの薬害エイズの問題での政府の謝罪と徹底的な捜査だろう。
最近も国土交通省OBによるダムのゲートなどの官制談合の問題が朝日新聞で指摘されていた。
こうしたことはまだまだあるのではないか。
1000兆円もの借金を抱えている国の政治。うみをださずして真の改革はなしえない。これは県とて市とて同じ事。
一握りの人たちが目先の金もうけのために公共事業をコントロールする。そんな「うみ」や「甘え」をまずは一つ一つつぶしていくことだ。
そのためにも。政権交代がまずは必要なのだ。
みんなで変えよう。そうしないとこの国はどんどん変になる。
アールビュレットの芸術家たち
news23の特集で、アールビュレット芸術の特集がおこなわれており興味深く見た。
自閉症だったりダウンだったり、障害を持っている人たちが織りなす芸術作品。
以前、神戸の長田のギャラリーではたさんたちの取り組んでいるそうした作品展を見たことがあった。既成概念にとらわれない、名声を求めない。社会に対しての反骨、反体制、自由な自己表現。見ている内になんだか気持ちがいい。なんだが引き寄せられる。
そんな作品に僕も惹かれた覚えがある。
とんでも帽子おじさんがピックアップされていたが、突拍子もない帽子をかぶったおじさんが町に繰り出す時、パアーっと場の空気が変わる。「驚きと笑顔」ばかばかしくもあり、でも縁日の露天商が心からの拍手を送っていた。これはいい。
権威主義ではない、名声も求めない。どこまでも透明なのか、どこまでもグロなのか。なんだか何かにとりつかれたように筆を動かし続ける無名の芸術家達はなにか、宇宙の力をチャネリングしているようにも思える。
キューレターを悩ませ続けるアールビュレットの美しさこそ、本当の美しさなのかもしれない。
こんな芸術。鶴岡でも作品展やワークショップしたいな。
成人式。
成人式 式を終えてから役所前からしばし街頭からはなむけの言葉を贈った。
年末にかけて、どうも国の政治がおかしい。新教育基本法が強行採決されたことこの9日から防衛庁が防衛省になる。こうしたことはその象徴。
そして国は1000兆円もの借金を抱えている。
今年はまさに変革の年。政治を変えないといけない。
おかしいことはおかしいとはっきりと言わなければならない。
皆さんが一人一人、一歩、政治に、まちづくりに踏み出せば、大きく世の中がかわっていくはずだ。動けば変わる。その市民の一人一人の力が成す奇跡を僕は信じている。
いろんな道、それぞれ精一杯志をたててどんどん行動に移し、夢を叶えてほしい。それと同時に、今年は、一歩政治やまちづくりに参加をしてほしい。せっかく得た選挙権という貴重な権利をムダにすることなく、本当にみんなの心に響く政治に、政策に、人に、一票を投じてほしい。
ーーーーーー
昨日、今日と全国で成人式やお祝いの会があったと思う。財政破綻した夕張市では1万円の予算で新成人の手作りで本当に心温まる成人式がおこなわれたそうだ。
実行委員会の女の子が涙を浮かべながら、声をつまらせながら、全国からの支援でこんなに素敵な成人式ができた。みなさんに感謝したいし、こんなことが出来たことを自信とし、これから夕張でがんばりたいとスピーチしていた。
僕はテレビを見ながらもらい泣きしたし、全国に感動は広がり、そしてこうした成人式を実現した夕張の新成人たちは、どこの成人式よりも誇り高き、充実した一日を過ごしたはずだ。
夕張のような財政破綻は、夕張だけのことではない。鶴岡だって明日は我が身と思っチェックと改善、改革をやっていかなければいけない。
そして、こうした手作りの感動的な成人式は、今後、右肩下がり、財政難の自治体政策の一つのモデルなのかもしれない。
鶴岡市の新成人に、未来にむけての大きな拍手を贈るとともに夕張の新成人にも大きな拍手を贈りたい。
そして、この新成人に、国の、県の、市の借金のツケをこれ以上押しつけることはできない。
とにかく。みんなで動いて、この世の中を笑顔が一つ増えるように変えれたらいい。
「動けば変わる。」地球の声に耳を傾けつつ、動きだそう!