阪神淡路大震災から12年 | 前 山形県議会議員 草島進一

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阪神淡路大震災から12年



明日でもうあの阪神淡路大震災から12年となる。
1995年のあの日。僕は29歳、神奈川在住の一介のサラリーマンだった。
そのころ。3年半、編集部からはいった日本リサイクル運動市民の会。で、僕は有機野菜の宅配をするらでぃっしゅぼーやの神奈川センターの物流センターの立ち上げ要員で運輸の担当者になり1年半が経過していた。その頃は、ほぼ毎週のように神楽坂の会社のBFにあるエコロジーセンターで、長良川河口堰反対運動東京支部のミーティングを繰り返していた。そこに集まるみんなと、これも毎週末のように那珂川とか、気田川とか、ちょっと遠征して長良川とかに、ファルトボート(おりたたみのカヌー)でカヌーとキャンプに行くのがほとんど唯一といっていい楽しみだった。仕事よりも本当の楽しみは仕事の外にある。会社ではそんな、どちらかというとさえない社員だった。
 
 1月17日。連休の朝だった。厚木のアパートで起きた僕はテレビ映像にはまった。がれきの山と火事。もうもうとあがる煙。「どこかの外国の町に違いない」「いやまてよ」「何!?」「神戸!?」僕はぴょんと飛び起きて、それから会社にいくのだけれど、頭は神戸の事一色。仕事に全く手がつかなかった。
 神戸にもらでぃっしゅぼーやの支店があった。それと実はその代表の高見裕一氏は、神戸に事務所を構える現職の国会議員だった。
 「神戸にいかせてください」僕はその日のうちに志願していた。
 実は、神戸には僕の大親友がいた。「あいつが埋まっているかもしれない」
いくら電話しても連絡がとれなかったので、そういう気持ちがどんどん高まっていった。

 1月19日。僕らは神奈川センターから5人の派遣団として大阪センター経由で神戸で支援活動をすることになる。20日。物資満載の2トントラックで西宮にはいる。ほとんどの木造家屋の一階部分がぺしゃんこになり、ビルが折れ曲がり。道路は崩れ、電車の線路はうねうねにひんまがっていた。サイレンの音。ヘリの音。まだもうもうと煙があがっているところもあった。ラジオでは、約二〇〇〇人とか三〇〇〇人とか犠牲者の数が発表されていた。どんどん犠牲者の数が増えてくる。はじめは会員さん宅に届けようとしていた物資だったが、どこに誰がいるのかなんてほとんどわからない。とにかく路上で暖をとっている人たちに物資を手渡していった。
 西宮駅前に実家があった親友の家も訪れてみると、全壊家屋。「全員無事。●●●●にいます」の張り紙。ほっと一安心。その日。芦屋川より向こうは危険としていわれ、その日は断念。

 一月二三日。三田市経由で電車をのりつぎ、大阪から三時間かけて新神戸に着く。「バウさんという市民運動をやっている人が御影でたきだしをはじめた。みんなで手伝おう」そんな指令。五人の派遣隊の一人として新神戸からR43号、R2号をつうじて、御影公会堂まで約四時間歩く。ビルが倒れている。線路がひしゃげている。路地に入るとがれきの山。ショールームのガラスが飛び散り見る影もない。電信柱が軒並み倒れている。至る所の道路が割れ、段差ができている。ラジオでは「医療、看護士など専門家の方以外は立ち入らないでください」などと流れていた。
ところどころで一斗缶に自分の家の柱をくべて、暖をとっている人の姿。声もかける気がしない。
黒こげになってまだくすぶっている一帯。深緑の制服とヘルメットの自衛隊が掘り起こししている現場。まだ誰か生き埋めになっているらしい。「こんなところに来て、僕らみたいなのが何の役に立つのだろう」御影というところに近づくにつれ、不安も増していた。

 都市壊滅の中を歩いたこの四時間はまだ鮮明に心に焼き付いている。立派な道路もコンクリートのビルディングも、地震で崩れた。家具や家の柱やコンクリートブロックでつぶされた人たちは亡くなった。時には家とともに焼けた。灰燼と、絶望的な空気の中、どんどんその空気に飲まれるようにして歩く。サイレンの音。報道ヘリの音。
 御影公会堂。ひげのバウさんに会う。とにかく握手。「なんとかしましょう」「なんでもやりますので言ってください」「今、みそ煮込みうどんつくってるねん」「は?」
と見るとでっかい寸胴とプロパンガスボンベと、五徳。一千人分ぐらいの食材。「今はあったかいものが大事や、一緒にやってくれるか」「はい、なんでも」
 それまで作ったこともないようなみそ煮込みうどんを大鍋でつくる。無我夢中で、材料を切り、大鍋にいれていく。ようやくなんとかできた。
 
 御影公会堂には当時約二千人もの方々が避難していた。「できたよー。」バウさん。ずーっと列ができる。数千人の人たち。おじいちゃんもおばあちゃんも、子供達も。血のりが顔についている人もいた。包帯の人も。みんなずっと並んで次々と僕らが今つくったみそ煮込みうどんを食べ始めた。「大丈夫かな 」僕らは正直不安だった。もちろん味に自信があるわけじゃない。食べ始めたおじいちゃんやおばあさん。
「おいしいなあ」「あったかいわ」「ありがとう」「ああ、やっとほっとした」
中には涙をためて、そういうおばあさんがいた。
 肌寒い空の下、崩れたコンクリートのブロックに座り、お椀をかかえたおじいさんが、うつむいて、涙を流し、汁をすすりながら、ありがとう、ありがとうと何度もお礼をされた。

僕は、その瞬間の事を一生忘れないだろう。そして、その瞬間、何か僕の中でこれまでの人生では味わったことのない力に包まれていた。別次元のエネルギーのような感じで満たされていたのだ。

亡くなった肉親。倒壊した自分の家。「すぐ近くの小学校に家族の遺体があるんだよ」という人など深刻な状況の中、とにかくよそもののど素人がつくった味噌煮込みうどんは、なんと涙で迎えられた。


そして、その時、なんとこの鍋づくりに被災者でありながら、当初から関わってくれた人がいた。原さんというその界隈の世話役の方とそのご家族だった。ジャージ姿の原さんは、兄を震災で失ったといっていた。「でもいつまでの泣いていられへん。自分らが何かせんと」と言って「君らはそうか、東京の方から来たんか、ありがとうな」といって一心に一緒に鍋をつくった。原さんが声をかけてその親戚の方を含め七名。それから一週間以上もの鍋づくりをやり続けた。原さんとは初日からうち解けていろいろ話をした。

僕ら五名の派遣団は、その日は御影公会堂の中で被災者の方が使っていなかったホールの中の観客席で寝袋にくるまって寝た。そして朝起きると、鍋