持続可能な鶴岡ブログ

持続可能な鶴岡ブログ
トップページ > 持続可能な鶴岡ブログ > カテゴリー: 災害ボランティア
カテゴリー: 災害ボランティア

【能登半島地震支援】鶴岡の寒だら汁鍋で元気に!他PJ


【能登半島地震支援】2024.1.1〜 Timeline


●鶴岡市議会3月議会(2/27)に日本版FEMA(緊急対策庁)を求める意見書案提出! 又、3/1は草島が関連質問します。

     日本版FEMAを求める意見書案

【能登半島地震支援第2弾】2月20日出発、21日、輪島市重蔵神社で焼きそばと玉こんの炊き出し

鶴岡から5名が行き、焼きそば218食。肉と野菜を秋野さんが上手に調整。他、焼き肉も60食提供出来ました。
428609509_2804749799701030_8146442974889990969_n 428636283_7686023861416596_3875651107566806619_n

 

2月1日、能登半島地震から1ヶ月、8500人の避難者。関連死を防ぎましょう!


▽2/1、NPO鶴岡災害ボランティアネットワーク メンバー4人で次を協議しました。「宝物探し隊」もニーズは高いとは思うが、リスクマネジメントに課題。やはり鶴岡の美味しい食文化 炊き出しか。次は庄内風芋煮かなー。2月中旬頃を予定。僕自身は議会日程がはいってくるのでとても厳しくなる。更に協議を進めていきます。
▽2/1 北茨木市の行政、観光ご担当者より、1月31日珠洲市の3箇所の避難所で12000食のあんこう鍋の炊き出しができました!とのご報告をいただきました。
1月12日の報道をご覧になってお問い合わせをいただき、現地情報などをお伝えしていました。良かったです。


能登の珠洲市の被災者を、鶴岡名物、寒だら鍋で元気に!】プロジェクト!
 

主催:NPO鶴岡災害ボランティアネットワーク 
協力:一般社団法人 OPENJAPAN


1月5日午後5時より「鶴岡災害ボランティアネットワーク」の理事みんなで今般の能登沖地震の支援について、珠洲市の現地に1月5に入った千川原君と音声をつなぎ「現地の状況と鶴岡から何ができるか?」を協議。結果、「食文化創造都市の鶴岡らしい炊き出し」をやろう!ということに決定!

 食材、機材を集め、1月11日午後1時出発! 高岡市に1泊 12日当日午前4時高岡市ホテル出発 珠洲市現地9時着 準備して正午。寒だら鍋の炊き出しをおこないました。

能登の珠洲市の被災者を、鶴岡の寒だら鍋で元気に!

1月15日、報告会をおこないました。「炊き出しは、当面能登のトップニーズ!


ZOOM映像より。

1月12日 鍋が珠洲市民の笑顔を作りました‼ 
ご協力いただいたみなさん、ありがとうございました!



 


1月12日の道中、炊き出し準備、炊き出し模様など一連の全編記録映像です。早回し1時間強。今後の支援の参考になれば幸いです。

1月16日、TUYで報告会について報道されました。
1月12日「ひるおび」で全国中継されました。
1月11日、出発の際の模様が山形県内TV報道されました。
ありがとうございます。

1月10日さくらんぼテレビ) https://news.yahoo.co.jp/articles/d882a49c3137708de945f66ddf3a870d34b6af3e (NHK) https://www3.nhk.or.jp/lnews/yamagata/20240111/6020019485.html (1月11日さくらんぼテレビ) https://news.yahoo.co.jp/articles/beac3bd90c4fb95b1d77b9389d311f8d718c9862 (1月11日テレビユー山形) https://news.yahoo.co.jp/articles/80611c1ccc922eb86f71a6385804f610badfed74 (山形テレビ) https://news.yahoo.co.jp/articles/4731974915934507c5e62130a436899afce4bb2b (山形放送) https://news.ntv.co.jp/n/ybc/category/society/yb51761867309f4035a8112a86581f2dfc



1月11日、出発しました!

1月10日、最終ミーティング


●【避難所の風景を変えましょう!テント、ベッドをならべるには】5年前、避難所避難生活学会の出版記念会での草島プレゼン

●神戸からはじまった、避難所支援。進化できてるか?


●企画

2024.1.11〜1.13 (ver.4 1.10 12:00更新)    

●炊き出し予定場所が珠洲市緑丘中学校に決定しました。
●珠洲市避難者のほとんどは、未だ冷たいおにぎりしか食べていないとのこと。炊き出しは今、最大のニーズです。(OPENJAPAN木村1/10確認)
●白山のだだちゃ豆農家「よそべい」さんから自家製味噌(製品)をご提供頂きました!

ミッション 

激震と津波で最も甚大な被害で、庄内の魚文化で関係がある珠洲市で、鶴岡ならではの鱈汁鍋炊き出しをおこない、被災者の笑顔をつくり、元気にする。

 

主催 NPO鶴岡災害ボランティアネットワーク 代表 村井勢一 

協力団体 鶴岡社協ボランティアセンター
庄内浜文化伝道師 有志
庄内青果市場 元青果 丸果
山王通り商店街
與惣兵衛(よそべい)
NGOウェザーハート災害福祉事務所
一般社団法人 OPENJAPAN 
NGOピースボート災害支援センター

●炊き出し・チームメンバー(1/8更新)

小川豊美(とよみ管理栄養士事務所代表 栄養師)
巖見孝明(車販売 他 巌 経営者)
粕谷政雄(鶴岡災害ボランティアネットワーク理事) 
佐藤薫  (鶴岡災害ボランティアネットワーク理事)
草島進一(鶴岡災害ボランティアネットワーク理事)鶴岡市議 

●日程  炊き出し場所:珠洲市緑が丘中学校 に決定!
1月9日(火) 青果市場 野菜受け取り 9時
   17時〜
 とよみ管理栄養士事務所 オープンハウス奏に搬入。カット全て終了
 山形県鶴岡市藤沢字石渡15-13
1月10日(水)
      午前9時まで、野菜とよみに取りに行く。他野菜は11日まで遠藤さん冷蔵庫 
   午後 13時〜 機材、材料積み込み ●ガス●山王●買い出し
   午後5時 全体ミーティング @ニコフル2F 鶴岡社協ボランティアセンター
        ZOOMも設定 
1月11日(木)  ●午前中 ●野菜ピックアップ ●鱈 加工 ●一部買いだし
   12時30分市役所玄関前集合 最終点検 調整 出発式
   午後1時 市役所発  
   夜7時ぐらい 富山県高岡市 ホテル着 アパホテル高岡 丸の内(5名)
                      

1月12日(金) 早朝4時から、石川県珠洲市に向かう。能登町で OPENJAPAN木村とーる氏、鈴木たくみ氏らと合流。
午前9時珠洲市緑丘中学校到着
昼食にあわせて、珠洲市の避難所(珠洲市緑丘中学校) で500食の炊き出しをおこなう。

(避難所の調整は、5日現地入りの千川原、ピースボート大塩)
●午後3時 珠洲市役所の避難所(80名)に100食を提供 3Fキッズスペースにダンボールベッドを設置。
●午後5時半 珠洲市社協スタッフ に50食を提供。社協の女性用にダンボールベッドを設置

終了次第 富山県高岡市へ。 ホテル着 スマイルホテル高岡 駅前(5名)
1月13日(土) 富山県高岡市 ホテル→ 鶴岡に帰路

 


プロジェクトへのご支援、ご協力をよろしくお願いします。

口座は以下


ゆうちょ銀行

858 普通 988572

ツルオカサイガイボランティアネットワーク

サイトウリュウキチ


荘内銀行 本店営業部

普通 1057821

鶴岡災害ボランティアネットワーク

理事 斎藤留吉


鶴岡災害ボランティアネットワーク 代表 村井勢一 

理事 草島進一

 


2024.1.17 阪神淡路大震災から29年に思う。
 

1.17 2024 あれから29年。

1995.1.23、神戸市 御影公会堂。野菜を持っていって、加わった炊き出しの現場、山田バウさんと、木村とーる氏に出会った。

炊き出しの器をもった目の前のお年寄りがポロポロ涙を浮かべて喜んで下さった。3日のつもりで、当時、らでぃっしゅぼーやなどを運営していた日本リサイクル運動市民の会 環ネットワーク(高見裕一代表)の社員で派遣されていた僕の中で、何かがハジけた。バウさんは、Faxと電話でフロンの回収のキャンペーンで全国行脚した時の日本中の知り合いに働きかけ、食材やテントなどが、石屋川公園に届きはじめていた。僕は3日後、「僕、ここに残ります」と一緒にきた会社のメンバーに告げ、その晩は、御影公会堂の客席で寝袋で寝た。次の日からはモンベルのムーンライトを3張りたてて、寝泊まりし、神戸元気村と名乗りはじめた。

「バウさんて、何のこと?」とバウさんに尋ねたら、「わし、カヌーやるんやわ、」と一言。僕は当時、長良川河口堰反対運動の仲間たちと一緒に毎週末にフォールディングカヤックで川旅することを楽しんでいた。1994年の9月には夏休みに1週間の釧路川単独川旅を行っていた。バウさんは日本でカヌーの文化をひろめた先駆けだった。長瀞のある寄居で「Empty bottle」というカヌー塾を主催していた。
で、「んじゃ僕、スターンてことにしようかな」とバウさんに告げた。それから全てがはじまった。

 被災者の方々と一緒につくる、元気鍋は、料理隊長木村とーるが中心となり、山形の大鍋を元気村のフロントにでんと構え、1日7000食の提供を続けた。松山ユースホステルへの脱出作戦、更地になる前に大事なモノを掘り起こす宝物探し隊。元気村ライブ。他、一か月の間に30以上のプロジェクトを立ち上げた。バウさんの発想をカタチにする0→1の日々だった。拠点の石屋川公園は、最大200名がテントに宿泊するボランティア村となっていた。朝日新聞の外岡秀俊さんが時々いらして、AERAで「ボランティア元年」と大特集を組んで下さった。

 私は会社を辞め、「神戸元気村」の副代表になった。

 その後、松山文紀氏 木名瀬 がってん氏、吉村誠司氏、らが加わり、仮設住宅の孤独死防止のためのベルボックス。お米で被災地と全国を結び続ける3Rice神戸、などを展開。
 畳6畳で2号線に向けてはじめた元気村ライブには、岡野弘幹、妹尾隆一郎、天野SHO さん他連日登場、時にはフレディマクレガーが来たり。2月22日には小学校で大規模ライブ。その後、ワールド記念ホールで高校生6000人招待し、ハービーハンコックらによるRainbowLotus コンサートを開催。(関連https://jazztokyo.org/column/inaoka/post-62348/

 1997年バウさんが最初に現地入りした福井三国の日本海重油災害では初の社協とNGO連携の災害ボランティアセンターの立ち上げと私はインターネット「Save the coast!」での発信に力をいれ福井県三国と石川県加賀市現地の現場とインターネット発信基地で4ヶ月活動した。竹村純二氏と出会った。

 バウさんは、被災地支援の他に地雷撤去など平和運動にも力をいれ、OPENJAPAN というMLで発信しはじめた。

 中越地震では、そのMLで全国によびかけ、プライバシー確保のため、700張りのテントを集め提供するプロジェクトを行ない、私は中越元気村を運営した。東日本大震災では3/19に石巻でNPO社協連携会議を立ち上げ、石巻に支援ベース基地を設けて活動。肥田ひーさー氏、鈴木たくみ氏、鈴木よしこ氏が加わる。その後、吉澤武彦氏がカーシェアリングに力をいれ、カーシェアリング協会を立ち上げる。

 その後、今のOPENJAPAN として地震や水害での活動に至っている。

 現在、能登半島地震直後から現地いりした吉村誠司氏(ヒューマンシールド神戸)、木村トール氏、木瀬がってん氏、肥田ひーさー氏、鈴木たくみ氏、鈴木よしこ氏がOPEN JAPAN 緊急支援プロジェクトとして現地で活動。吉澤武彦氏が15日から車の無償貸し出しを和倉温泉を拠点にはじめた。松山文紀氏は震災をつなぐネットワークで活躍中だ。

神戸から29年。今の行動が問われる。みんなも、僕も。



 


須田郡司・鎌田東二 写真展とライブ!


スサノヲの雄叫び

11月12日(日)【荒魂ースサノヲの雄叫び】大成功!

公演アーカイブ映像 4K

別角度から  HD

 


舞踏:森繁哉
脚本・歌・石笛・横笛・法螺貝:鎌田東二
テナーサックス 尺八 :松本健一
ジャンベ:佐藤暁子
ブルースハープ・ディジュリドゥ:草島進一


 伝説の野外フェス「月山炎のまつり」(1999−2007)以来の歌声が、久々に鶴岡に響きました!ご来場いただいた皆様、ありがとうございました!


 月山炎のまつり1999

 月山炎のまつり2002 (参加者 800名!)


鎌田東二先生 絶体絶命・遺言ライブ 2023年7月8日 大阪・中津@Vi code

 


月山賛歌2023 11/5のトークのエンディングより。


須田郡司、鎌田東二 写真展は5日から12日までの6日間、200人以上の方々にご覧いただきました。ありがとうございました。

鎌田×須田鶴岡アートフォーラムチラシS


鎌田先生プロフィールS


須田郡司さんの巨岩の写真は、週刊現代 2023.11.4号「奇岩伝説」としてカラー8P 大特集されました。GOOD タイミング!IMG_7762 2

 

須田さんによる解説映像

 

 


須田・鎌田 写真展 オープニングトーク11/5 ゲスト草島進一 

「災害多発時代の備えと対策」2023.11.7 @鶴岡アートフォーラム 鎌田東二×須田郡司×草島進一

1998年より20年来、ご指導を頂いている 鎌田先生との出会いと、私、草島進一の原点をお話させていただきました。


お詫び 草島プレゼン中 「T・K・B」は、トイレ・キッチン・ベッド(テント)の誤りです。訂正します。


須田・鎌田 写真展 トーク 11/12 ゲスト 森繁哉

災害と芸能「荒ぶる災害の時代に備えて」


 トークはこの映像の33分から。

 


鎌田東二 京大名誉教授 松尾芭蕉の奥の細道 の「奧」は、湯殿山である。


須田・鎌田 東北フィールドワーク 11月6日ー11日

草島進一 撮影映像


東北フィールドワーク 11月6日〜11日

鎌田東二先生 撮影映像

 1日目 庄内


 2日目 秋田


 3日目 秋田ー青森


 4日目 青森 三内丸山遺跡 恐山 大石神社


第5日 戸来村キリストの墓、大湯環状列石 2023年11月10日


第6日(最終日)田沢湖御座石神社、鏡石、十六羅漢、丸池、ライブリハ 11月11日


10月12日 演目

「荒魂~スサノヲの雄叫び」
2023年11月12日 鶴岡アートフォーラム公演

出演者:
舞踏:森繁哉
脚本・歌・石笛・横笛・法螺貝:鎌田東二
テナーサックス 尺八 :松本健一
ジャンベ:佐藤暁子
ブルースハープ・ディジュリドゥ:草島進一

第一章 悲と旅 約10分 詩の朗詠:「悲の岬」1・2 +歌12 サウンド

「悲の岬1」

月光は黄泉路を越えてきた。満月を串刺しにしたまま血を舐めている処刑台の山猫は何に向かって吼え ているのか。月夜に還ってゆく何処の島がある。故郷への道は塞がれたまま魂の難民は国境線で不安と 恐怖の夜に怯える。全世界を覆う電脳もこの怖れの暗渠をほぐすことはできない。絶対零度の深海闇夜。 癒しなどどこにもないのだ。救いがあるとすれば無力に震える独りの夜を無為に過ごすのを見届ける自己 があることのみ。深遠を呼び覚ますモノが存在するとしたら黄泉路を越えて自己を突き通す無限遠点の まなざしと意思を植えつけたこと。超越の波動が悲の受精卵を苦の岬から突き落とす。満月に向かって 悲しく聳え立つ母之理主よ応答せよ応答せよ応答せよ!

歌1:「探すために生きてきた」

探すために生きてきた 道を求めて生きてきた 夢を求めて生きてきた 愛を求めて生きてきた

12345678910 果てしない 12345678910 切りがない 12345678910 とめどない 12345678910 道がない

探すために生きてきた 探し求めて生きてきた 時を求めて生きてきた 闇を潜って生きてきた

12345678910 果てしない 12345678910 切りがない 12345678910 とめどない 12345678910 終わらない

探すために生きてきた 探し求めて生きてきた

 

路を求めて生きてきた 夢を求めて生きてきた

12345678910 果てしない 12345678910 ときがない 12345678910 あてがない 12345678910 みちがない

探すために生きてきた 探し求めて生きてきた 夢を求めて生きてきた 闇を潜って生きてきた 探すために生きてきた 探し求めて生きてきた 夢を求めて生きてきた 闇を潜って生きてきた

 

歌2:「泥の鳥ブルース」

身を切るような鋭さを自分に向ける 身を断つような悲しさに我を失う 俺にかまうな 捨て置け あめつちよ

遠さにあこがれる自分にあきれる 近くにいる君を傷つける自分を恥じる 俺は荒ぶる泥の神 ちちははよ

生れてきてから愛されたことがない 死のうとしても死ねない自分を哄う 俺は飛べない泥の鳥 しらとりよ

恋をしても飛べない自分を呪う 怒りの火山に身をゆだねて死にたい 俺は廃墟のガラクタだ 富士やまよ

生れてきてから自分を壊したことがない 一度たりと自分を超えたことがない 俺は飛びたい泥の鳥 始祖鳥よ

生れてきてから自分を壊したことがない 生れてきてから愛されたことがない Ahu Ahu

詩の朗詠:「悲の岬2」

愛を求めて生きてきた 愛を求めて生きてきた

 

深い夜の瞳の底でアンテナは疼いた。音信絶対不能の音源を逆探知したが事切れてしまった悲劇的な 預言者を弔う。耳孔の奥でトマトが潰れマグネシウムの閃光が散らばった。神父は手旗信号を使って必 死の面持ちで十字を切ったが誰も気にせず通り過ぎた。夜空を染める無関心と迸る涙のような流星。帰 って来い。暗号解読が遅れたため避雷針が裂けて粉々に砕けた。もう一歩も先に進めない。三歩退いて 倒立したまま巫女は緋袴を翻して昏睡した。懐かしさこそ誘惑の手口なのに。忘れるな。未来を覗く窓が 指揮棒で激しく割られていた。空に向かって牛乳を撒き散らした。ハレルヤを叫びながら白色驟雨に撃た れ南十字星に内臓を鷲摑みされたまま遠くの遠くまで嘆きの河を渡って往く。その日始祖鳥は翔ぶ空を 切なく探した。

第二章 スサノヲの雄叫び (詩の朗読を中心に + サウンドインプロビゼーション) 約20分

すべては妣の死から始まった
いのちの女神 イザナミの妣の死から
ゆくりなくも 天上の神々は使命した
このくらげなすただよへるくにを修理固成せよ と

ゆえに イザナギ イザナミは めおととなって みとのまぐはひにより 国生みをした

ひるこ

水蛭子

あはしま

淡島

あはじのほのさわけのしま

淡道穂狭 別 島を皮切りに

い よ ふたなのしま

伊予の二名島

あ め の お し こ ろ わけ みつごのしま

天之忍許呂別てふ隠岐の三子島

つくしのしま

筑紫島を産んだ
伊予と筑紫は 身一つにして面四つの島 だった

おほやまととよあきつしま

そのあとに 天御虚空豊秋津根別てふ大倭豊秋津島を 産んだ

これら 最初に生まれた八つの島々を合わせて 大八島国 と名付けた

あ め ひ と つばしら い き のしま

つづいて 天比登都柱てふ伊伎島

あ め の さ で よ り ひ め つ しま

天之狭手依比売てふ津島

さどのしま

佐度島を 産み

あまつ み そ ら とよあき つ ね わけ

おも

 

そして大妣イザナミは
この大八島という大きな八つの島々のまわりに
さらにまたたくさんの小さな島々を産んだのだった
そして 石の神 風の神 海の神 木の神 山の神 野の神 など
ありとあらゆる 山川草木 海 山 風 土の
天地の間にある神々を産み
最後に 火之迦具土神を 産んだ
そのため みほとが焼かれ 病み衰えて 黄泉の国に神去った

大妣イザナミは最初にヒルコ 最後にカグツチを産み その病み衰えたからだから 鉱物や土や水の神々をこの世にもたらして 黄泉の国に去っていったのだった

いのちの大妣イザナミは 産みに産んだそのはてに 死に至ったのだ すべてはここから始まった

水に始まり火に終わる大妣イザナミのはたらきのおおいさに涙する

大妣の悲
それは 夫イザナミの無理解と非道な仕打ち
見ないでと頼んだ わがからだを見られてしまった
その辱と 穢れたものを見るかのような夫のまなざし
いのちの行く末をおおらかに見とどけることができたなら
死もまた穢れなどではなく
いのちの変容のかたちなのだと
やさしく受け止めるまなざしが生まれていたら
吾が悲しみと痛みはこれほどのものではなかった
大妣はそう感じていたはずだ
そのことに 父イザナギは気づかなかった
彼は わが身が穢れに触れたと思い
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で

ひ の かぐつちのかみ

 

禊祓をしたのだった

そして その禊祓の最後の最後に生れたのが
吾だった
父イザナギは 最後に左目を洗って 姉アマテラスを
右目を洗って 兄ツクヨミを
そして 最後に鼻を洗って 吾 スサノヲ
を生み成したのだった

父イザナギは

この禊祓から生まれた子神たちの最後の三柱を

みはしらのうづのみこ

とくに 三 貴子と名付けて 尊んだ

だが それゆえに
だが そのために
吾は 父を許せなかった
母の思いと愛を踏み躙って 独り善がりな清らかさの中に浸りきっていた父を

父よ
あなたは あさはかだ
父よ
あなたは ひとりよがりだ
いつも そうだった
おとこたちの 手前勝手はもうたくさんだ
俺は泣くしかなかった
ただただ 泣き喚くしかなかった
啼きいさちるしかなかったのだ
おかあさ~ん
おかあさ~ん
おかあさ~ん と
母の痛みと悲しみを感じれば感じるほど
それに気づかぬ父の無神経に腹が立った
何なんだ その自分勝手は
そして その自分勝手を俺たちに押しつける

姉 アマテラスには 高天原

 

 

兄 ツクヨミには 夜の食国
吾 スサノヲには 海原を知らせ

だと?

大妣の悲しみにも気づかずに
おもいをかけずに
いたわりとやさしさをそそがずに
あなたの愛は独善的である いつも
あなたの愛は独行的である つねに
妣は 耐えた
妣は 忍んだ
そして
妣は 恨んだ
そんなうらみを あなたは世界にもたらしたのだ
その責を取ってもらう
吾は啼きながら そのことを言い募っていたのだ
責め立てていたのだ
だが あなたは いっかな そのことに気づきもしなかった
そして 吾を追放した
根の堅州国 妣の国に行ってしまえ! と
もちろん 吾は 根の堅州国 妣の国に行こうとした

だが その前に 姉にだけはわかってもらいたいと 別れを告げに行ったのだった それが 次なる出来事を生んだのだった

姉は吾を疑った
自分の国を奪いにきたのではないかと
まるで 何もわかっていなかったのだ 姉は
父と同じで
吾をただのわがままで粗暴なやつとしか見ていなかったのだ
父に見捨てられた母が深く傷ついたように
姉に見限られた吾も深く傷ついた

 

けれども そのことは 表沙汰にはしないで

うけひ

身の潔白を証明するために 宇気比をおこなった

ものざね とつかのつるぎ

姉は 吾が物実の十拳剣を取って 天の真名井の水で洗い 口中に入れ さがみに噛んで 息とともに吐き出し

三柱の女神を生み成した

た き り び め のみこと おくつしまひめのみこと

多紀理毘賣命 またの名 奥津島比売命

いちきしまひめのみこと さよりびめのみこと

やさかに まがたま みすまる たま

吾は 姉の物実の八尺の勾瓊の御統の珠を受け取って
天の真名井の水で洗い 口中に入れて
さがみに噛んで わが息とともに吐き出し

五柱の男神を生み成した

市寸島比売命 またの名 狭依毘売命

た き つ ひ め のみこと

多岐都比賣 命

まさかつあかつかちはや ひ あ め の おし ほ みみのかみ

正勝吾勝勝速日天之忍穂 耳 神

あ め の ほ ひ の かみ

天之菩卑能神

あ ま つ ひ こ ねのみこと

天津日子根 命

い く つ ひ こ ねのみこと

活津日子根 命

く ま の く す び の かみ

熊野久須毘神

こうして ウケヒによって 吾は心の清らかさを あかしした

だが おれの怒りは収まらなかった
アマテラスよ なぜ おれを疑うのだ
イザナギよ なぜ 母の悲しみを分からぬのか
おれはおまえの 三貴子の一人などではない
おれは 母の子だ
おれは 俺だ
おまえの子ではない
おれの怒りは怒濤となり噴火となり爆発散乱した
すべてのものを破壊する
すべての神を破砕する

 

すべてのいのち破爆する

おさまらぬ
おれの こころは おさまらぬ
おれの からだも おさまらぬ
なぜだ なぜだ なぜだ
なぜ なにも わからんのか
おれは 暴れに暴れた
田んぼを破壊した
畑を毀した
畔も 土手も 何もかも

反吐を吐いた

大嘗殿に糞をした

忌服殿に血だらけの馬を投げ込んだ
天の班駒を逆剥ぎに剥いで
皆殺しにしたかった
破砕し尽くしたかった
誰もかも
何もかも
どこもかしこも
アマテラスは おれを怖れた
そして 逃げた
逃げ隠れた
天の岩戸に
おれは それをも破壊し尽くしたかったが
天上の神々は おれを閉じ込めた

そして 神集いして 祭りをおこなった アメノフトダマは神籬を捧げ
アメノコヤネは祝詞を奏上し アメノウズメは手に笹葉を持って踊りに踊り神楽を奏して神憑りした

胸乳が露わになった
ホトが露わになった

あめ ふちこま さか

 

それを見て 神々が笑った
花が咲き誇るように笑った
そのとき ひかりがさした
光が戻った
光が甦った
アマテラスが顔を出した
あはれ あなおもしろ あなたのし あなさやけ おけ!

天晴れて 光が射して 面に当たって 白光りして
おのずと手が伸びて みなともにゆれにえゆれ おどりにおどり なびきになびいて おけ となる
おけ おけ おけ となる

世界に光が戻り
いのちが息を吹き返した
いのちは甦ったが
俺は追放された
髪の毛を切られ
髭を切られ
手足の爪を剥がされ
あらゆる罪穢れを背負わされて
身も心も魂も剥き出しにされて
追放された
地の果て
この世の涯
涯の果てまで

だからおれは ながれ 流れて 流浪する
漂流する
かつて 海原を治めよ と命じられたおれが

 

七つの海を 流され 漂流し
地の涯 この世の果てまで 経巡った
どこにも おれの居場所はない
休む場所はない
憩いの地はない
どこからも 拒絶されて
宿無しの 独り旅
還るところのない 漂泊
流浪
ただ 荒れ果てて すさみきって ながれゆくまま
そして その流れゆくままに 行き当たったのが
出雲の地だった

いづも いつも いづるも

いつ 思い出しても 愛惜の思いに揺れる
出雲の斐河に至った時 上流から箸が流れてきた
そこに 誰かが住んでいる

おれは 駆け上った 上流に

ほどなくして 粗末な小屋を見かけた
泣き声が漏れていた
どうしたのだ おまえたち
何を泣いているのだ
毎年この時期になるとやってくる ヤマタノオロチが
最後に残った八番目のこの娘を食い殺しにやってくるのです
それが つらくて 泣いているのです。
泣いているのは 三人
あしなづち てなづち くしいなだひめ

 

じつは おれは これまで そのヤマタノオロチとやらと同じであった 食い殺し 斬り殺し 叩き殺し ありとあらゆるものを 破壊尽してきた それが おれだった

だが そのおれが おれのかつてのおのれのようなヤマタノオロチを退治して見せよう そやつは おれにしか倒せぬからな
ヤマタノオロチを殺すことができるのは ヤツの分身でもあったおれだけだ

おれは策略を施した
八頭八尾の八岐大蛇に 八つの甕に なみなみと酒をそそぎ
酒精をプーンと匂わせて ヤツをおびき寄せ
ぐでんぐでんに 酔っぱらわせて のびてしまったところを 叩き切る
おれの策略は奏功した
まんまとおれの仕掛けた罠にはまった
かわいそうだが 姫たちを救わねばならぬ
そのためには アヤツを殺さねばならぬ
両立は 無い
殺すか 殺されるか
喰うか 喰われるか
どちらかしか ない
さいわい おれは 生き残った
いのちながらえた
人救いを果たして
クシナダのヒメよ 美しいクシナダヒメよ
おれとともに 生きてくれ
おれとともに 生きてゆこう
この ヤマタノオロチを倒した 八雲立つ 出雲の地で
こうしておれは 勝鬨を上げ
心の底から晴れ晴れとした思いに満たされ
思いのたけを歌にした

 

  八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
    八重垣作る その八重垣を
たくさんの雲が立ち上ってくる
その八雲立つ出雲の地で
愛するおまえとともに住む愛の御殿を造り
その愛の住処で 常永遠に 愛するおまえと過ごしていこうぞ
おれは 吾が心清々しと大声を挙げて 歌をうたった
おれの歌は 八雲の歌 出雲の歌 八重垣の歌だ
そしてそれは 八岐大蛇の鎮魂歌であり 母の鎮魂の歌である
母の痛みと悲しみを背負い切れずに 暴れに暴れ
壊しに壊し
わめきにわめいてきたおれが
初めて 正調の調べを持った晴れの歌をうたったのだ
  八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
    八重垣作る その八重垣を

やー やー やー やー

それは いやさか のうたである
やさか のうたである
やーさか のうたである
うたでしか おれの心の晴れ間を言い表せぬ
心の晴れ真
心が晴れた
心は晴れた

ようやっと

妣よ 大妣よ

こうして 吾は いましみことのかなしみをほぐし
母の痛みと恨みを 解き放った
この天上にまで千木高知りて聳え立つ愛の御殿の歌で

 

母の恨みを 歌で溶かした

すべては妣の死から始まった
そして 最後に 歌が残った
死が 詩となった
死が 歌によって 史となった
おれの語りは 歌となる
それこそが 海原を治める おれの道

海原は 歌原である

くらげなす漂へる大八島の国
葦原の中つ国
豊葦原の瑞穂の国よ

第三章 和魂・幸魂(約15分)

歌:1「僕の観世音菩薩」

ぼくの観世音菩薩

朝 扉を開くと 鳥の声が聴こえる 風のそよぎ 水のせせらぎ 光に満ちて しあわせをかみしめる ああ ぼくの観世音菩薩

ああ わたしの観世音菩薩

夕べ 扉を閉めて 闇の中に憩う
ろうそくを燈し 静かに語らう
やさしさにあふれ しあわせをかみしめる D―A-Dm-G D-A―G-D

ああ ぼくの観世音菩薩 ああ わたしの観世音菩薩

夜 魂を重ねて 夢の中に溶ける
いのちの声に 耳を澄ます
からだを寄せ合って しあわせをかみしめる

ああ ぼくの観世音菩薩 
ああ わたしの観世音菩薩 

ああ 南無 観世音菩薩 ああ ああ 観世音菩薩

 

2「神」

この苦しみの中に神が在る この悲しみの中に神が居る 神は森に住んでいるけれど 人の心の森にも住んでいる

この激しさの中に神が在る この慎みの中に神が居る 神は海に住んでいるけれど 人の心の海にも住んでいる

開け天地 吹けよ山河 つながれ天地 結ばれよ山河

この痛みの中に神が在る この静けさの中に神が居る 神は天に住んでいるけれど 人の心の天にも住んでいる

この喜びの中に神が在る この祭りの中に神が居る 神は祭りに現われるけれど 祈る心の中にも現われる

開け天地 吹けよ山河 つながれ天地 結ばれよ山河

歌3:弁才天讃歌 オンソラソバテイエイソワカ(8 回)

天の川清く流れ 地上に光の帯となって 緑の大地を育み 世界に夢の帯となって 心の絆を結ぶ
弁才天 輝け
弁才天 宇宙へ

弁才天 響かせ

 

 

弁才天 天翔ける オンソラソバテイエイソワカ(8 回)

天の星遠く流れ 地上に光の帯となって 魂の道を照らし 世界に虹の橋となって 国の境を超える
弁才天 あふれ出せ
弁才天 世界へ

弁才天 響かせ 弁才天 魂翔ける

オンソラソバテイエイソワカ(8 回) オーム

第四章:奇魂 (約10分)

歌1「銀河鉄道の夜」

この地球から見ると銀河は白い乳の流れに見えて夜空を彩る その夜 ケンタウルスの祭りでぼくは不思議な夢を見た 銀河の夜汽車に乗って星の世界を旅する夢だった

あの空の果てまで ぼくたち二人で まことのさいわいを探しに行こう

カンパネルラの星までぼくは旅をする カンパネルラの星からぼくは飛んでゆく

この宇宙の中で地球はいのちと苦悩に満ちた星として輝く その夜 銀河の渦の中でぼくは孤独な星となる いっしょに行こうと誓ったきみはどこにいるのか教えて 教えて

あの空の果てまで ぼくたち二人で まことのさいわいを探しにゆこう

カンパネルラの星までぼくは旅をする カンパネルラの星から独りで飛んでゆく

あの空の果てまで ぼくたちみんなで

 

まことのさいわいを探しにゆこう 探しにゆこう 探しにゆこう 歌2「神ながらたまちはへませ」

神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら

岩陰より滲み出して来る 水を探して 夢を探して 向こう岸にる 向こう岸に渡る
夢を開いて 夢よ開けと
あはれあはれ はへ あはれあはれ はへ

神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら

なけなしの夢が壊れて 行く当てもなく流離う 尽十方未来際 尽十方未来際
夢を開いて 夢よ開けと
天晴れ天晴れ はへ 天晴れ天晴れ はへ

神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら 神ながらたまちはへませ神ながら

祈りの言葉は死に絶えても 朝日の中で甦り咲く 尽十方未来際 尽十方未来際
夢を開いて 夢よ開けと
天晴れ天晴れ はへ 天晴れ天晴れ はへ

神ながらたまちはへませ神ながら

詩の朗読:「火伏の山」(=月山讃歌)

火伏せの山として知られる霊山 そは 火を隠し持つ聖山

人を寄せつけぬ険しさと激しさ けれど 人を魅了してやまぬ神秘

そこに どのような火が燃えているのか?

 

火を吐く恐竜のような荒ぶる山の烈火 赤い蛇体のように流れ落ちる溶岩 樹木を焼き尽くす山火事の火 悩める心を激しく焼き焦がす火 人と人との間にあたたかに灯る火

いろんな火があるのだ 多様な火の多様な顕われがあるのだ」

母は言った 災難が起こるから火打ち石を持て!

父は言った 災難を乗り越えるために火打ち石を打て!

吾は言う 災難を受け止めるために火打ち石を配れ!

汝は言う 災難の後を生きるために火打ち石を隠せ!

さまざまな火の処方がある中で 火伏せの山はそのどれにも生成変化する

そは 火を秘め持ちながらも 火を抑えることもできる山 火を鎮めるための天地の清水を満々と湛える山

そんな 火伏の山に わたしはなりたい

歌3「月山讃歌」フィナーレ

北の大地から天に向かって 月の山が聳え立つ 万年雪を頂いた峰が緑の田畑を潤す この天地に永遠なるもののしるしを刻んで この世界のいのちの絆を結ばしめる山

Holy Mountain Forever 我らが月の山 Holy Mountain Forever いのちのオリジン

人は死ねば皆魂になって 月の山に帰ってゆく この世の浄土に安らかな顔で月の山に還って往く 

 

この天地に永遠なるもののあかしを結んで この世界のいのちに平和を約束する山 Holy Mountain Forever 我らが月の山 Holy Mountain Forever いのちのオリジン Holy Mountain Forever 我らが月の山 Holy Mountain Forever いのちのオリジン

 

 

 


 

 

 

 


鶴岡市に段ボールベッドが1260基 導入されました!令和2年決算より。


鶴岡市に段ボールベッドが1260基 導入されました! 令和2年決算審議 市民文教委員会にて

令和2年度の決算において、災害対策費の中で、新型コロナウイルス感染症対策として、段ボールベッドとパーテーションが1250個、9,605,200円分導入されていたことがわかりました。新型コロナウイルス感染省対策の国の予算がついたために導入できたとのことで、指定避難所に配備したとのこと。ただし段ボールベッドはかさばるので、1箇所で保管し対応するとのこと。段ボールベッドについては、以下、一般質問でとりあげ求めて来たものであり、大いに評価したいと思います。今後は避難所対応として素早く1000台を超える段ボールベッドを並べることができるということです。パーテーションと一組ということですので、雑魚寝の風景が仕切りあり(個室)、ベッド対応という風景に、ガラリと変わるということです。ささやかながら提言が実りました。

ーーーーーーーー

とりあげた一般質問はこちら

→2019年9月議会 一般質問より

、、、もう一つ質問を続けます。私は所属するNPO等を通じ、2004年中越地震の被災地支援からプライバシー確保、エコノミークラス症候群防止の観点でテントや簡易ベッドの普及の活動をおこない、熊本地震からはエコノミークラス症候群の日本の権威である新潟大学 榛澤和彦先生を代表理事とする避難所避難生活学会の先生方と「災害関連死ゼロを目指し、避難所の風景を変えよう」を掲げ簡易ベッドの普及の活動をおこなっております。今日お配りした参考資料は学会の先生方と共同執筆し5月発刊した書籍であります。今般大阪北部地震では茨木市職員用にキャンプ用ベッドを貸与し、避難所で段ボールベッドを並べました。

又西日本豪雨では、7月10日に倉敷市にキャンプ用ベッドを11台提供し13日に真備地区の避難所で段ボールベッドを搬入し、14日にその避難所 薗小の避難所ですけれど、約300名被災者全員をベッド生活に変える事ができました。

榛澤医師によれば避難所はゴミ、埃、衛生面を考慮したり、起き上がりやすさを考慮すれば、病院と同様にベッドが必需品を標準にしてほしい。ということであります。難民支援のための最低限の基準であるスフィア基準でもベッドは必需品になっています。

今般は、政府によるプッシュ型で配備したはずのベッドなのですが、自治体でかなり捉え方にばらつきがあり未だにならんでいないところもあるというのが現状でございます。

又、被災地で自治体職員は寝る暇もなく災害対応に追われるのが常でありますが、これまでの被災地で地べたに布団や寝袋で仮眠する光景も何度か目にしました。

こうした経験から提言をしたいんですが、私は当市では避難民全員にベッドを支給すること。職員には簡易ベッド等で仮眠を取る、を常識にしていただきたいと思います。 小規模災害の避難所対応、市役所職員用そういうことをとして50台〜100台程度のキャンプ用ベッド、コットを早期に備品として整備されることを提言します。
段ボールベッドも速やかに並べられるように、導入に際しての協定を結ぶことを提言します。

ドーム型のキャンプ用テントは体育館などの避難所で着替えやプライバシー確保に有用であり、少数からで結構ですので整備を提言します。又、車中泊の避難も十分想定されますのでエコノミークラス症候群対策として、弾性ストッキングが非常に有効とされております。これは市民の皆さんにぜひ呼びかけて頂きたい、これを提言をいたします。答弁を求めます。

ーーーー

危機管理監 

次に職員用簡易ベッドの整備についてお応えします。被災地の自治体職員については、厳しい環境の中で災害に対応されていると伺っております。簡易ベッドの整備につきましては、配置場所の確保といった課題もあるかと思いますが、実際に導入している自治体の調査をするなど検討をしてまいります。

次に段ボールベッドにつきましては、最近では熊本地震や西日本豪雨災害における避難所で費用実績から簡易ベッドとともに被災者の疲労を軽減するものと認識しております。本市でも今年度検証用としてダンボ-ルベッド4台を購入いたしました。今月23日の鶴岡市総合防災訓練において使用し、実際に参加者から組み立てや寝心地を体験していただきます。こうした訓練での使用による検証の他、被災地での使用状況についても調査研究してまいります。

災害救助法に該当する大規模な災害になった場合は、国から救援物資として被災自治体に供給されますが、届くまでに日数を要しますので、避難所に速やかに供給できる体制作りとして、協定を締結することは有効であることから、段ボール製品の供給に関して協定を締結している他の自治体を参考に検討してまいります。

次に避難所におけるテントの整備についてお答えします。本市では、避難所のプライバシー確保対策として、避難所の施設内に更衣室を設け、着替えや妊婦授乳者などのスペースとして利用するほか、間仕切りを活用した居住スペースの確保を想定しております。しかし、長期間にわたる避難所生活において、被災者のプライベートな空間の確保として、テントも有効な手段の一つであると認識しております。今後被災自治体の使用例やスペース面の課題などを調査研究してまいります。

次に災害関連死ゼロを目指した必要な物資の整備についてお答えします。熊本地震では亡くなられた269名の内、災害関連死は214名にのぼり、避難生活の疲労や環境の悪化が大きく影響しているものと認識しております‘。避難所ではふだんどおりの生活ができず、被災者はさまざまなストレスを受け、災害関連死の原因となるエコノミークラス症候群や感染症が発生しやくなるため、避難所生活における災害関連死の予防策や被災者の移住空間の確保についても、さらに検討する必要があると考えております。議員ご紹介の弾性ストッキングは、下肢に圧力を加え、うっ血症状を改善するストッキングであり、主にエコノミークラス症候群を防止する効果を持つとお聞きしております。’

 本市では、発災後に不足するトイレや寒冷地の対策として、暖房器具の配備に取り組んでおりますが、弾性ストッキングなども含め今後更に被災自治体から避難所で必要とされた物資について、情報を収集し、被災者のケアについてもあわせて調査研究して参ります。以上です。

 

ーーーーーーーーーー

 

 


大阪北部地震支援!そろそろ避難所の風景を変えましょう!


大阪北部地震 (2018年(平成30年)6月18日(月曜日)7時58分頃 )におきまして

犠牲になられた方のご冥福をお祈り申しあげますとともに、避難されている皆様に心よりお見舞いを申しあげます。

今般茨木市 桂睦子市議会議長様と連絡をとりあい、避難所避難生活学会(代表 榛澤和彦 新潟大医師)とともに以下のプロジェクトを立ち上げ支援活動を展開中です。

 

簡易ベッドを避難所の被災者に提供し、雑魚寝の解消を。
「避難所の風景を先進諸国の常識に変え、災害関連死ゼロに」

 

阪神淡路大震災以降、昨今の東日本大震災にいたっても被災地で避難者は体育館に布団が敷かれ、雑魚寝が常道でありました。

そのために災害で命はとりとめたものの、車中泊や避難所でエコノミークラス症候群になって命を落とすケース、避難所の体育館の地べたに布団といった、ゴミやカビが漂う中就寝することで、劣悪な環境の中で健康をこわしたり、睡眠がとれず身体を休めることができない結果、命が失われるなどの関連死のケースがありました。
 段ボールベッドやキャンプ用簡易ベッドの利用はエコノミークラス症候群対策としても、快適な睡眠を確保することができ、健康を維持できる点においても、大変効果的であることが、東日本大震災以降、避難所支援をおこなっている数多くの医師、研究者(避難所避難生活学会)の実践によって証明されています。又、イタリア、米国の被災地では被災後、直ちに政府調達の「ベッド」や家族単位のテント等が配給されるのが常識であり、避難所の国際基準スフィア基準にもベッドが常道となっています。

今般の大阪北部地震の現場でも茨木市 桂睦子 市議会議長様から避難所で避難する高齢者や子供達の健康の心配の声が届いています。
 スフィア基準に準じたベッドの利用を、私達は実現すべく政府にはたらきかけています。今般の大阪被災地でなんとしても「避難所の風景を変える」事を実現したく行動しております。何卒ご協力のほどよろしくお願いいたします。


「避難所の風景を変えましょう!」は阪神淡路大震災より、災害が起きる度に被災地支援で動き続けてきた草島の信念、そして3年前から活動をともにしている「避難所避難生活学会」(榛澤和彦 代表)の念願でありました。

この春、避難所避難生活学会の先生方とともに、「避難所づくりに活かす18の視点」(東京法規出版)に執筆しました。

大阪現地で避難所運営に関わる皆様に必ず参考になると思い、現地に出版元よりご送付いただいておりますが、私が書いた部分だけについて、このHPで特集させていただきます。

出版記念シンポジウムの動画も届きましたのでご覧いただければと思います。

避難所の風景を変えましょう!

 

R0049359R0049361R0049360

R0049363

R0049362


阪神淡路大震災から22年。


2017年1月17日。

阪神淡路大震災から22年。

テレビに映し出される竹灯籠を見つつ、5時46分 黙祷。

御影公会堂、石屋川公園、長田、、、当時が思い出されます。

 

あの時、朝日の外岡秀俊さんが名付けてくださった「ボランティア元年」から22年。

現場で3年間、動いた 行動から、僕の今の全てがはじまりました。

 

神戸元気村。やはり代表のバウさんとの出会いは、大きかった。僕は自信と前を向いて力強く歩む力、0から1を創造していく力をいただきました。

 

神戸をなんとかしたい。と、集まってきたみんなと、瓦礫の神戸で笑顔を作り出すひとつひとつをつくりあげることができました。

 

その時の私には過去も未来もない、今しかない。その太い今という瞬間が連続していました。

その2年後に起きた日本海重油災害では神戸での被災地の中と外との情報の乖離の問題をなんとかしようと現場とPC画面とに向き合いました。

それから中越地震、東日本大震災、熊本地震とこれまでの経験と教訓を活かすべく、志を共にする仲間と行動してきました。

 

 今、福祉現場での修行を課し鶴岡市内の福祉施設勤務の為、週末のみではありましたが、熊本地震での車中泊対策などでのテントプロジェクト、岩手県岩泉水害の初動で活動することができました。岩泉ではグループホームの現場や福祉避難所にも参りましたが、今の職場での経験も含め災害時要援護者の課題について改めて再考させられました。

 

又、熊本地震でのテントプロジェクトのご縁で「避難所・避難生活学会」を通じて、避難できたけれども亡くなってしまう避難所の改善の問題にずっと向き合っておられる榛澤先生らにお会いし、意見交換することができました。これも実はバウさんの発案でしたが、中越地震で700張りのテントを提供する活動をしていた私たちとして、「体育館に地べたに雑魚寝」という避難所の風景を変えることは今後も大きな課題ととらえています。

 また昨年は酒田大火から40年で酒田を訪れていた復興学会の室崎先生とお会いし、本来の復興の軸、避難所の問題など、率直な意見交換ができました。昨日の朝日新聞には住宅等の耐震化が進まない現状が指摘され、室崎先生が公序の必要性を説いておられました。

 

 

今日も大勢の方々が集まっている神戸市東遊園地に設置された 希望の灯りという灯火のモニュメントには

 

震災が奪ったもの

命 仕事 団欒 町並み

たった一秒先が予知できない人間の限界

震災が残してくれたもの

やさしさ 思いやり 絆 仲間

 

この灯りは

奪われた

すべてのいのちと

生き残った

わたしたちの思いを

むすびつなぐ

 

とあります。

 

 

 

阪神淡路大震災から22年。改めて、6,434名の犠牲を今、いかせているのか。

改めて問われます。

 

 

阪神淡路からの災害支援を重ねた経験を活かし、一昨年 研修を受け登録した防災士として、(社)OPENJAPANの一員として、鶴岡の地域防災をはじめ、今、これからに活かすことに努めて参ります。

 

 


庄内の防災ー庄内平野東縁断層帯は発生確率Sクラス。


8月21日、道田町町内会で防災の講演をおこなわせていただきました。この4月24,25日に現地で活動した熊本地震現場の様子を伝えつつ、地域の皆様の防災意識に働き掛けられるようにするには。と結構諸々考えました。

そしていきついたのは、最近になって(8月19日!)リスクの表し方が変わった地震確率が高い場所にある庄内平野東縁断層帯の話。そして昭和39年の新潟地震。更に今年阪神淡路大震災から21年に5000名もの犠牲者の詳細データを分析した結果から導き出した災害実態からの防災対策。熊本地震の現場の倒壊家屋と避難所。テント支援、重機ボランティアなどボランティアの実際の現状。こうしたものを軸に組み立てお話させていただきました。

当日のレジュメは以下です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

防災講演会 2016.8.21

                    道田町町内会 資料  草島進一
1)熊本地震の現場より。 

・4月14日21時26分、熊本県熊本地方を震央、震源の深さ11km、M6.5の地震発生 熊本県益城町で震度7(日奈区断層帯)

•       4月16日1時25分(28時間後)には、震源の深さ12km、M7.3の地震が発生、熊本県西原村 益城町で震度7(布田川断層帯)
●88名死亡(直接死50名)避難者183,883人  4ヶ月後 1752人

   ●全壊家屋8,125棟、半壊 28,424棟、一部破損 約13万棟

   震度7 2回の益城町 2度目の地震で家倒壊、死亡家族も

2)鶴岡は安全か? 30年確率6% Sランクの庄内平野東縁断層帯。  

   鶴岡 田川地区 被害想定 

         建物全壊    8,546人      半壊  1,7083人

         死者        446人   負傷者  4,795人

         避難者    16,716人

3)思い出してみましょう 52年前 新潟地震 M7.5  震度5の被害

4)阪神淡路大震災から21年からの教訓

  (5036名の死体検案書から見えてきたこと NHKスペシャル)

  ●家屋倒壊 圧死(即死)は7% 窒息死を防ぐ 住宅の耐震化

   家屋倒壊、家具転倒による 窒息死を避けるために。

→耐震診断。家具転倒防止 要援護者の家屋倒壊からの近隣の救援を。

  ●通電火災 対策  感震ブレーカーの普及を

5) 共助 公助 避難所対策 災害ボランティアの実際。 今後の課題

エコノミークラス症候群 2004年中越大震災で7名 熊本地震で1名死亡。
震災関連死を防ぐ。 → テントプロジェクト 貴重品掘り起こし 福祉避難所

要援護者(高齢、一人暮らし、障がい者支援)マップ作り、共有など


▽9月25日 道田町 防災訓練 午後1時〜 ぜひご参加を 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今般、庄内平野東縁断層帯と新潟地震について、改めて調べて気づかされることがたくさんありました。

まず52年前の新潟地震について、私は生まれる直前で体験をしていません。しかしながら道田町の公民館にその日集まった多くの諸先輩方が小学生だったり中学生だったりしており、色々と当時のお話をいただいたのでした。

新潟地震については、当時京田幼稚園で犠牲になったの3名の幼児の慰霊祭には何度か参加させていただいておりましたが、図書館で荘内日報社や山形新聞のの当時の記事や動画を改めて咀嚼しました。庄内地方で9名が亡くなっています。それと以前私の県政報告会でご講演をいただいた高専の澤先生から、「実は新潟地震の際、酒田の方が震度が大きかった」という事を伺っていました。​震源は粟島沖。

 

更に昨日、鶴岡市マリカ東館でおこなわれた「どうする!庄内!最近の災害から防災を考える」市民サロン『活断層が起こした熊本地震 -活断層:庄内平野東縁断層帯は 大丈夫なのか?-』 に参加し、改めてこの地震、酒田市で震度6、そして断層型地震であったことを澤先生の講演から伺いました。

今後の庄内平野東縁断層帯の地震を考える際、新潟地震の記憶をたどることが大変有意義だということを再確認しました。

澤先生 からは、庄内平野東縁断層帯の 30 年地震発生 確率は、0~6%で地震発生確率が高いグルー プに属し、主要活断層 97 のうちワースト 16 位。一方、2016 年熊本地震の震源であ る布田川断層帯の 30 年地震発生確率は、0 ~0.9%でワースト 60 位と庄内の活断層より も低い値ですが地震がおきたの情報が事前のちらしでも発信されておられました。
 今般、地震確率の表記がこの8月19日に変わったことも踏まえて、地震への危機管理を強めていくことが大切です。庄内平野東縁断層帯はクラスSに属し。特に庄内南部が30年確率6%と高いのです。

断層帯の資料を詳しく見ていくと北部はほぼ0%、南部は6%とあります。このことを改めて伺うことも昨日できました。要はこの断層帯にたまったひずみが北部は明治27年 1894年の庄内地震の際にリリースされたという推測に基づくのではないか。とのことでした。先生はしかしながら、学会内でこの論点に反論もあることを伝え「だからといって北部で安心出来る問題でもない」とのことでした。

地震災害の備えとしては、外傷性窒息、圧死を来す家屋倒壊を防ぐ家屋の耐震。家具の固定。それから阪神大震災21年目にして明らかになってきた通電火災の対策。 このことを町内でも強く訴えかけさせて頂きました。

他、福祉避難所をはじめ避難暮らしの改善も急務と思います。中越地震の際から実際におこなってきたテントプロジェクや、現地で最も活躍している重機ボランティアについても若干ですがお話させていただきました。避難所の風景はこの21年間どこまで改善されているのかもいつも突きつけられる課題。私達は阪神淡路の体験を下に、プライバシー対策やエコノミークラス症候群対策として、テントを使って頂く試みに中越地震の際から取り組んできました。先般これはBe-pal8月号に掲載頂きました。また、この9月9日におこなわれる「避難所ー避難生活学会」で発表させていただくこととなりました。

地域の防災。最新の知見や経験知を下にしっかりとすすめていきたいものです。

私としては、今後、新潟地震の皆様の体験を集めていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 


 

 


熊本地震 支援 OPENJAPANの先遣隊の調査がはじまりました。


logo

4月14日夜の震度7、4月16日 1時25分AMのマグニチュード7.3(暫定値)、最大震度6強の熊本地震。

犠牲になられた方のご冥福をお祈りするとともに現在19万人もの避難者の皆様にお見舞いを申しあげます。私自身14日の地震後、諸々思案しておりました。熊本には幾度か地下水政策の取り組みや球磨川の取材で訪れており、いち早くすっ飛んでいきたいとも思いつつ、現在勤める福祉施設の関係もあり調整中です。

平成28年熊本地震 支援 openjapanの先遣隊による調査はじまりました。

阪神淡路大震災当時「神戸元気村」で一緒に活動し、その後、新潟水害、中越地震、中越沖地震、東日本大震災、ネパール支援など、数々の現場で救援活動に携わった吉村誠司君が4月16日に現地にはいりました。現在現地調査中です。

私もopenjapan理事の一人として、後方支援として現地の先遣隊の動きを伝えるとともに、より効果的な支援策を皆でつくりあげていきたいと考えております。

OPENJAPANは、神戸元気村や東日本大震災で被災地支援にあたった有志によって立ち上げた一般社団法人です。

東日本大震災以降、NGOと行政のプラットホーム会議の立ち上げや、ボランティアの滞在拠点、支援ベース絆をつくり、継続的支援の活動をおこなってきました。宮城県石巻に拠点をもち、現在東日本大震災支援でコミュニティ・カーシェアリング事業、IBUKI古民家再生事業などをおこなっています。今般熊本に向けての支援活動をはじめました。

オープンジャパンの緊急支援活動は、
心ある皆様の支援のおかげで活動させていただいております。
被災地への継続的な支援の活動を行う為に、
緊急支援のサポート、ご協力をよろしくお願いします。

郵便振替口座 02250-5-126661口座名 一般社団法人 OPEN JAPAN
●他の金融機関から 店名 二二九(ニニキユウ)店 当座 0126661


 


防災士講座の受講とこれまでのふりかえり


昨日、本日と防災士講座を受講しています。如何にこれまでの経験を地域防災につなげるかという事で、鶴岡災害ボランティアネットワークの一員として受講させていただいています。昨日8時集合から午後7時まで、本日8時半から試験終了の5時半すぎまで缶詰状態。阪神淡路大震災後の3年「神戸元気村」現地での経験、日本海重油災害、中越地震 中越元気村 そして東日本大震災以降の初動、OpenJapan、そして県議として水害、広島土砂災害の現場調査などをおこなってきたこれまでを振り返り客観的に包括し、更に自分自身の課題をとらえるいい機会になっています。いつも11月1日は湯殿山の閉山式に参加しているのですが、本日は現世修行の一日であります。


ネパール大地震ー吉村誠司君の報告とOPENJAPAN総会


6月9日、午後6時半から吉村誠司君に鶴岡に来ていただき、4月25日に起きたネパール大震災への支援活動の報告会を開催した。

カトマンズの状況はテレビで何度も流れていたが、吉村君らが行ったラップラック村などはカトマンズから10時間四駆の車で行き、その後、登坂10時間かかるとのこと。写真で大歓迎されている姿を見つつ、そうした村が星の数ほどあることを聞いた。世界中からNGOが入り支援が続いているが、村すべてをカバーするには相当の構えが必要とのこと。これは長期戦で臨むべきと吉村氏。今後、テント生活している人々の暖房をどうとるか。など、大きな課題を抱えていくとのこと。ロケットストーブを地元の素材を使ってつくれないか。なども検討。会が終わってからも会に参加したSさんは小型の発電機をつくっているので何か役に立てないかなど諸々相談した。今後OPENJAPANとして支援を呼びかけ活動していくとのこと。終了後若林へ。庄内魚の刺身定食堪能。

動画は以下。

https://youtu.be/4aVRrrnC1Po

 

6月10日 午後2時からOPENJAPANの総会が石巻で開催された。私はスカイプビデオでの参加となった。カーシェアリング協会の活動にはめざましいものがある。行政ともパートナーシップを組み確実に新しい社会モデルをつくりあげている。復興庁とも連携をとって事業を進めている。そのほか、銀行や企業とパートナーシップを組んでの石巻、福島への支援活動も継続している。古民家を地域のカフェにするIBUKIプロジェクトは今年10月をオープンの目標に邁進するとのこと。他、昨年度は水害があった山形、白馬、の支援、またネパールの支援。また、食品の放射能測定の件、私からは福島の子供たちの保養のプロジェクトをなんとか進めたい旨の説明をした。OPENJAPANは、非営利のホールディングカンパニーのようなかたちを目指していく。1)動く2)オリジナル 3)ひな形 4)育てる 5)助ける をモットーとし、東北の真の復興と新しい文化をつくる。本日、OPENJAPANの理事の一人として承認いただいた。東北の真の復興のために、新しい社会モデルの構築をしつつ、さらに力を尽くしていきたい。

 

 


1.17


2002.1.17神戸元気村の解散の際書いたもの。踏みしめて

2002.1.17 震災から7年16日晩から一晩、今年は山形県鶴岡市のボクの事務所、ハートビートセンターで明かす。神戸元気村での記録ビデオを見たのり、当時のライブの映像を見ていた。そうしてこれからを考える。神戸の犠牲者6432名のいのちを無駄にしない。僕らは今、神戸を活かせているか。常に問いかけられている。あのとき、全くといっていいほど機能しなかった災害対策はどうか、あのときが大きなきっかけとなったボランティアやNPOの文化はどうか。先日訪れた神戸は、中心部から少しそれるとまだまだ建物がたっていないさら地が多く見受けられた。

1.17 5:46 7年が過ぎた。遠い昔のようでもあり、昨日のことのようでもあり。事務所前のロウソクに火をつけ祈った。ロウソクは文字を形どっている。読めるでしょうか。(写真クリックで拡大します)

この日の度にボクは自分を0にする。がれきになってしまった街で、お互い励ましあいながら、0から1を創っていった、クリエイティビティ、あの日々のエネルギーを思い出す。神戸を忘れない。6432名の犠牲を無にしない。

●事務所のウインドウ。震災直後に神戸入りした時の街の様子などを展示しています。1.17/2001/6:30

 

 

20021/13 神戸元気村の解散。そして次のステップへ。

 

■1月13日、震災から7年の神戸に行って来ました。当時からかかわったスタッフが50数
名集って、神戸元気村の解散を決定しました。

思えば、7年間。活動が始まって以来、毎日24時間体制で神戸の様々な問題解決のための活動をおこなってきた神戸元気村。
ボクは神戸を離れて早くも4年たつわけだけれど、神戸での毎日は、1日が何か通常の生活の1年分ぐらい濃縮されていたようにも思え、ボクの記憶や体にしっかりと刻み込まれている。まぎれもない、ボクの人生のターニングポイントが「神戸」だった。

神戸元気村は、山田和尚(バウさん)のたぐい希なる動物的センスによるマーケティング能力、そして、多くはないが、ミッションにむけてフルコミットして、すべてを投げ打ってでも働きまくるスタッフ。そして、、しかし自由にがんばれる、ボランティアのみんなから成り立っていた。

 「NPOの特性、その有益性というのは、その柔軟で自由で革新的な行動力」これは
震災の二年後に神戸を視察し、僕らに語った米国FEMA(緊急対策庁)のスタッフ、ベンジャミンが言っ
ていた言葉だ。行政には絶対できない俊敏な行動、人や民間企業を惹きつけ、寄付金
を獲得する能力、それは、ある意味、企業のマーケティングよりも瞬時にそして的確
に「つなぐ」「動く」作業が要求される。

 神戸元気村の特性はまさにそこにあった。ボクは、会社員だったときより、自分の
「カン」やそれまでの経験や、スキルをフルに回転し、そして自分の最大限の精神力
とクリエイティビティを発揮させ、事にあたっていた。別に高い月給をもらっていたわけではない。はじめの半年間は無休で炊き出しを食べながら活動。その後、アパートは借りることは無理だが、食べていけるだけの給料がでるようになり、最後は小さなアパートで生活できるような給料が支払われるようになっていた。会社勤めの時の半額ぐらいの給料。でもボクの生活はそれまでにないほど充実し、ボクは「生きている実感」と「生きることへの自信」をもって生活ができるようになっていた。そこには過去も未来もない、「太い今」という時間の連続形。不眠不休でもフル回転でやれる。自分がいた。テント生活の中でそれを発見したのだ。

 98年、神戸を離れ、ウォーターワッチを立ち上げてから、アメリカのバークレイ
のNPOにインターンしたとき、神戸元気村と同じような団体を数多く見かけた。新し
い文化をつくる。その革新的な行動力。米国の彼らがやっていたことは、いかに、優
れた事業を産み出すかということ。会員を獲得したり助成金をゲットしたり、そのた
めに、魅力的な事業をいかに作り出すかということ。そこにフォーカスされ、努力が
注がれていたと思う。スタッフは、9時から5時まで、通常の一流企業のように精神
を集中させてフルに働いていた。

元気村は、これまでやってきた100以上のプロジェクトの一つ一つ、実に奇跡を孕
みながら、ある意味で米国のNPOに負けないぐらい、とてもクールに運営されていた
と思う。ま、時にはいろいろうまく行かない時もあったけれど、数々のアクティビス
ト達の出会いや輪をもちながら、ファンドレージングもこなし、一般の寄付金も集め、
「誰にもマネのできない活動」と、有機的なネットワークをつくりあげてきたと思う。

災害時のボランティア・コーディネート機関としての元気村は、その革新的なアイデ
アと行動力とう点で、右に出るものはなかった。「日本海重油災害」では、バウさん
が「ひしゃく」を持って油をすくいはじめなければ、あの場で何もはじまらなかった。

当時現場の社会福祉協議会や町も市も県も、とにかく行政機関にはまったくスキルがなく、誰も、何も手をつけることができなかったところで、山田や神戸の実際の経験がモノを言った。これはニュース23などで紹介されていたから、記憶している人も少なからずいるだろう。

 

その重油災害の時、ボクは、神戸での経験を生かすべくインターネットWEB「Save
the coast!」を立ち上げ、運営した。このときはまたもほぼ1ヶ月不眠不休。ほぼ食
事もとるのも忘れ、30分ごとに更新を続けるという日々だった。これもなかなか周
りを理解させる事がいろいろきびしかったが、インターネットマガジンや立花隆 著
「インターネットはグローバルブレイン」、毎日新聞「余録」などで評価を受け、自
分でいうのもなんだが、 インターネットでのボランティアコーディネートの先駆け
を創ることができたと自負している。

 

ま、あまりに革新的すぎて、理解できない人もいたけれど。7年間、24時間体制で
動き続けてきた神戸元気村。24時間というのは独居老人の緊急通報システム、ベルボッ
クス事業があったからだ。このためスタッフの誰かが元気村の事務所で仮眠をとりな
がら待機する。ボクはほぼ、公園のテントや、仮設住居とこの事務所とのどちらかに
眠る。そんな生活をほぼ3年続けたのだった。今思えば、スタッフみんな、本当によ
くやったと思う。

 

神戸元気村に関わったボランティアの数、推定約2万人。そして数々の企業の皆さん。ほんとにありがとうございました。そしてスタッフのみんな、ありがとう。ボクに第二の人生を与えてくれた元気村代表のバウさん、ありがとう。そして本当にご苦労様でした。そして元気村と一緒に活動してくれた神戸の市民のみなさま。メディアのみなさま。元気村の活動を支えてくださって、本当にありがとうございました。

そして

神戸よ。震災で消えていった6千名もの命よ。

ボクは、神戸で授けていただいた新しい「いのち」を燃やし続けることを改めて誓う。

「神戸」を未来にどう活かすか、一生勝負をし続けることを誓う。

まだまだボランティアが根付かないこの国へ。

NPO が本質的に理解されない官僚大国のこの国へ。

民主主義が全く確立していないこの国へ。

市民の声が届かない、銀行や企業は救っても市民を救うことができないこの国へ。

膿がでつつも政官業の癒着と天下りがはびこるのこの国へ。

 

 

13日の会議では、「元気村のアクティビストのネットワークは消えることはない。
みんなで次のステージに行こう」という事を確認しあった。

今年もまた1月17日がやってくる。あれから7年たつ。

 

ウオーターワッチネットワーク代表 元神戸元気村副代表 草島進一

 

2002.1.17 神戸元気村 代表 山田和尚が朝日新聞「天声人語」にPICK UPされた。

 

 

■朝日新聞《天声人語》 01月17日 2002

 あのとき、たくさんの命が失われた。多くの人が、たくさんの大切なものを失った。7年前、震災で炎上する街の映像をテレビで見ながら感じたのは、自分が知っている街が廃虚に化すことへの何ともいえない喪失感、あるいは無力感だった。

 しかし、東京では何事もなかったかのように電車や車が走り、人が行き交っていた。その落差に戸惑いもした。どちらが現実なのか。むしろ、こちらの何事もないかのような日常の方が偽物ではないか。そう感じさえもした。

 実際、廃虚から立ち直っていく人たち、その支援をする人たちの姿を見たり聞いたりして、生きることの原点を教えられたような気がした。あの日、多くのものが失われたが、あの日から生まれ育ったものもあった。ボランティア活動といわれる多様な支援活動もそれだろう。

 そのひとつ、7年間活動を続けてきた「神戸元気村」がきょう解散する。神戸に単身乗り込んで炊き出しから始めた代表の山田和尚氏は「もう一度ただの50歳のおじさんに戻り、パキスタンへ行ってアフガンの人々への救援物資を運ぶ運転手をしようと思っている」。

 行政ができないことをやってきたという自負はあるだろうが、山田氏にはなお気がかりな点がある。「自立するのを助ける」。この意識が行政側にもボランティアにもあって「単に困っているだけの」被災者との摩擦を招いたことだ。お互いに自立した人間として接するべきだ、と。

 山田氏は17日早朝、六甲山頂から神戸の街に頭を下げて「お礼」をし、区切りにすると語っていた。