1月, 2015 | 前 山形県議会議員 草島進一

持続可能な鶴岡ブログ

持続可能な鶴岡ブログ
トップページ > 持続可能な鶴岡ブログ > 月別ア―カイブ: 1月 2015
月別ア―カイブ: 1月 2015

最上小国川ダム問題 科学者の最新の知見を排除したままで入札・着工は許されない


 

IMG_2887

_58E1922最上小国川ダム問題。

1/28、漁業行使権を有する漁協組合員有志と、守る会合同で県に対して、拙速な入札を差し止める申し入れをおこないました。

この写真は、これまでシンポジウムや講演会でいらしていただいた、先生方です。鮎研究55年の世界的権威、川那部浩也先生をはじめ、河川工学の今本博健先生、大熊孝先生、嶋津 先生、温泉研究の川辺孝幸先生、漁業法の熊本一規先生。魚類生態学の朝日田卓先生、など多くの科学者が調査やシンポジウムにご協力いただきました。

そして昨年の8月1日、川那部先生ら4名の魚類生態学者は「山形県がつくった最上小国川流域環境協議会資料のデータを解析してくださり、一本の意見書を提出しました。その意見書は アユを中心とする調査内容に関する意見書 論点。

    川那部 浩哉(京都大学名誉教授)
    竹門 康弘(京都大学防災研究所准教授)
    朝日田 卓(北里大学海洋生命科学部教授) 
    高橋 勇夫(たかはし河川生物調査事務所代表)
 

最上小国川流域環境協議会資料の問題点
1)調査の目的や方法が吟味されていない
2)限定的な調査データから逸脱した結論が導かれている。
3)各調査に結びつきがない
4)アユそのものに関する調査や検討が全く存在しない。

最上小国川流域環境保全協議会への提言(今後の調査に向けて)

小国川で計画されている流水型ダムはピークカット率が高いため、洪水時の堪水域の上流部に堆積する礫経の大きな土砂が下流へ供給されにくくなり、洪水の減水時や小出水時には堤体近くに堆積する砂泥のみが流出すると予測される。このため、①ダム下流域の河床更新度の低下と糸状藻類等の繁茂、②ダム下流へのシルトの流出による濁水発生と河床環境の悪化、③ダム下流へ供給される有機物組成の変化などを通じて、アユの餌環境やサクラマスの産卵環境の悪化が懸念される(サクラマスの産卵場が、ダム建設予定地〜下流1.5kmの範囲で発見されている)。これらは、岩手県のレン滝ダム、外枡沢ダム、島根県の益田川ダムなどの調査で得られている知見から明白と考えられる。
 上記のようなピークカット率の高い流水型ダムによって高い確率で起こると予想される影響に関しては、これまで全く調査されておらず、全く検討もされていない。したがって、今後これらの項目について詳細な調査を行い、影響をつぶさに検討することが必須である。
一般に、「ある事業等が環境にいかなる影響を及ぼすか、またその程度はどれほどか」を考えることは、それに疑問を持ちあるいは反対する人びとに対して、科学的な資料とそれに基づく具体的な判断とを提示し、その論議に供するための第一歩である。今回の「調査」と「結論」は、残念ながらそれに全く値しない。今後、最上小国川流域環境保全協議会の「資料」とそれに基づく「結論」がそれに堪えうるものとなることを希望し、そのことを強く要請する。

というものだ。28日わかったことはこの意見書が8月1日に提出されたにもかかわらず、これまで全く何の対処して来なかったことである。要するに完全に無視、排除して、今般の入札に至っている。裁判審議でもこの意見書は参考資料として提出されている。しかしながら、未だにそれに対する反論はないのである。

このことは県や県知事が「流水型ダムは通常のダムとは違って環境への影響は軽微だ」といっていることに何ら根拠がないということ。逆に流水型ダムでも確実に川を死に追いやり、鮎やサクラマスにダメージを与えうるということだ。

 

 

 

 


Exif_JPEG_PICTURE

 

 

 

 

 

 

_58E1911


議会報告書パドル8号発行。どうぞご一読いただきご意見を。


A面_1.15.19日手入れ草ai の最新MMM

 

草島進一議会報告 2015年2月1日号パドル8号

旧鶴岡市内ですと鶴岡タイムス2月1日号に

藤島、羽黒、温海、朝日地域には2月27日(火)の山形新聞、朝日新聞の朝刊に折り込みさせていただきます。

どうぞご一読ください。

また、ご意見、ご質問などぜひお寄せ下さい。

よろしくお願いします。

 

 

B面_1.15.ai119最終稿 のコM新


1.17 原点を踏みしめる。


DSC_0918 Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTUREExif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE Exif_JPEG_PICTURE1.17バウさんの写真を胸に5.46分を過ごした。

そして神戸元気村の活動拠点。石屋川公園へ。当時最大時80張りのテントで200人活動していた。

この日集まった元気村スタッフ。それぞれの人生を歩んでいる。子供も大きくなった。当時被災者から支援者にかわったベルボックスケアセンタースタッフは90歳を超える。でもとても元気でなにより。

20年。僕らは進化できているか。神戸から毎年問われるのが1.17。

とりいそぎ。後ほど加筆します。

 

https://www.youtube.com/watch?v=vA7oFVZUCdw

https://www.youtube.com/watch?v=vL0gjeKEz60

 


週刊ポスト1.30日号に掲載ー阪神淡路大震災から20年特集。


今発売されている週刊ポスト1.30日号21Pからの阪神淡路大震災特集 「復興する風景 20年目の阪神淡路地区」にバウさんとともに動いた当時の活動が紹介されています。当時も随分お世話になったジャーナリスト外岡秀俊さんが記事にしてくださいました。どうぞポスト購入してご一読を。当時と今の写真の比較も興味深い記事です。とりいそぎ。

http://www.weeklypost.com/150130jp/index.html

http://www.news-postseven.com/archives/20150117_298327.html?PAGE=1

 


1.17


2002.1.17神戸元気村の解散の際書いたもの。踏みしめて

2002.1.17 震災から7年16日晩から一晩、今年は山形県鶴岡市のボクの事務所、ハートビートセンターで明かす。神戸元気村での記録ビデオを見たのり、当時のライブの映像を見ていた。そうしてこれからを考える。神戸の犠牲者6432名のいのちを無駄にしない。僕らは今、神戸を活かせているか。常に問いかけられている。あのとき、全くといっていいほど機能しなかった災害対策はどうか、あのときが大きなきっかけとなったボランティアやNPOの文化はどうか。先日訪れた神戸は、中心部から少しそれるとまだまだ建物がたっていないさら地が多く見受けられた。

1.17 5:46 7年が過ぎた。遠い昔のようでもあり、昨日のことのようでもあり。事務所前のロウソクに火をつけ祈った。ロウソクは文字を形どっている。読めるでしょうか。(写真クリックで拡大します)

この日の度にボクは自分を0にする。がれきになってしまった街で、お互い励ましあいながら、0から1を創っていった、クリエイティビティ、あの日々のエネルギーを思い出す。神戸を忘れない。6432名の犠牲を無にしない。

●事務所のウインドウ。震災直後に神戸入りした時の街の様子などを展示しています。1.17/2001/6:30

 

 

20021/13 神戸元気村の解散。そして次のステップへ。

 

■1月13日、震災から7年の神戸に行って来ました。当時からかかわったスタッフが50数
名集って、神戸元気村の解散を決定しました。

思えば、7年間。活動が始まって以来、毎日24時間体制で神戸の様々な問題解決のための活動をおこなってきた神戸元気村。
ボクは神戸を離れて早くも4年たつわけだけれど、神戸での毎日は、1日が何か通常の生活の1年分ぐらい濃縮されていたようにも思え、ボクの記憶や体にしっかりと刻み込まれている。まぎれもない、ボクの人生のターニングポイントが「神戸」だった。

神戸元気村は、山田和尚(バウさん)のたぐい希なる動物的センスによるマーケティング能力、そして、多くはないが、ミッションにむけてフルコミットして、すべてを投げ打ってでも働きまくるスタッフ。そして、、しかし自由にがんばれる、ボランティアのみんなから成り立っていた。

 「NPOの特性、その有益性というのは、その柔軟で自由で革新的な行動力」これは
震災の二年後に神戸を視察し、僕らに語った米国FEMA(緊急対策庁)のスタッフ、ベンジャミンが言っ
ていた言葉だ。行政には絶対できない俊敏な行動、人や民間企業を惹きつけ、寄付金
を獲得する能力、それは、ある意味、企業のマーケティングよりも瞬時にそして的確
に「つなぐ」「動く」作業が要求される。

 神戸元気村の特性はまさにそこにあった。ボクは、会社員だったときより、自分の
「カン」やそれまでの経験や、スキルをフルに回転し、そして自分の最大限の精神力
とクリエイティビティを発揮させ、事にあたっていた。別に高い月給をもらっていたわけではない。はじめの半年間は無休で炊き出しを食べながら活動。その後、アパートは借りることは無理だが、食べていけるだけの給料がでるようになり、最後は小さなアパートで生活できるような給料が支払われるようになっていた。会社勤めの時の半額ぐらいの給料。でもボクの生活はそれまでにないほど充実し、ボクは「生きている実感」と「生きることへの自信」をもって生活ができるようになっていた。そこには過去も未来もない、「太い今」という時間の連続形。不眠不休でもフル回転でやれる。自分がいた。テント生活の中でそれを発見したのだ。

 98年、神戸を離れ、ウォーターワッチを立ち上げてから、アメリカのバークレイ
のNPOにインターンしたとき、神戸元気村と同じような団体を数多く見かけた。新し
い文化をつくる。その革新的な行動力。米国の彼らがやっていたことは、いかに、優
れた事業を産み出すかということ。会員を獲得したり助成金をゲットしたり、そのた
めに、魅力的な事業をいかに作り出すかということ。そこにフォーカスされ、努力が
注がれていたと思う。スタッフは、9時から5時まで、通常の一流企業のように精神
を集中させてフルに働いていた。

元気村は、これまでやってきた100以上のプロジェクトの一つ一つ、実に奇跡を孕
みながら、ある意味で米国のNPOに負けないぐらい、とてもクールに運営されていた
と思う。ま、時にはいろいろうまく行かない時もあったけれど、数々のアクティビス
ト達の出会いや輪をもちながら、ファンドレージングもこなし、一般の寄付金も集め、
「誰にもマネのできない活動」と、有機的なネットワークをつくりあげてきたと思う。

災害時のボランティア・コーディネート機関としての元気村は、その革新的なアイデ
アと行動力とう点で、右に出るものはなかった。「日本海重油災害」では、バウさん
が「ひしゃく」を持って油をすくいはじめなければ、あの場で何もはじまらなかった。

当時現場の社会福祉協議会や町も市も県も、とにかく行政機関にはまったくスキルがなく、誰も、何も手をつけることができなかったところで、山田や神戸の実際の経験がモノを言った。これはニュース23などで紹介されていたから、記憶している人も少なからずいるだろう。

 

その重油災害の時、ボクは、神戸での経験を生かすべくインターネットWEB「Save
the coast!」を立ち上げ、運営した。このときはまたもほぼ1ヶ月不眠不休。ほぼ食
事もとるのも忘れ、30分ごとに更新を続けるという日々だった。これもなかなか周
りを理解させる事がいろいろきびしかったが、インターネットマガジンや立花隆 著
「インターネットはグローバルブレイン」、毎日新聞「余録」などで評価を受け、自
分でいうのもなんだが、 インターネットでのボランティアコーディネートの先駆け
を創ることができたと自負している。

 

ま、あまりに革新的すぎて、理解できない人もいたけれど。7年間、24時間体制で
動き続けてきた神戸元気村。24時間というのは独居老人の緊急通報システム、ベルボッ
クス事業があったからだ。このためスタッフの誰かが元気村の事務所で仮眠をとりな
がら待機する。ボクはほぼ、公園のテントや、仮設住居とこの事務所とのどちらかに
眠る。そんな生活をほぼ3年続けたのだった。今思えば、スタッフみんな、本当によ
くやったと思う。

 

神戸元気村に関わったボランティアの数、推定約2万人。そして数々の企業の皆さん。ほんとにありがとうございました。そしてスタッフのみんな、ありがとう。ボクに第二の人生を与えてくれた元気村代表のバウさん、ありがとう。そして本当にご苦労様でした。そして元気村と一緒に活動してくれた神戸の市民のみなさま。メディアのみなさま。元気村の活動を支えてくださって、本当にありがとうございました。

そして

神戸よ。震災で消えていった6千名もの命よ。

ボクは、神戸で授けていただいた新しい「いのち」を燃やし続けることを改めて誓う。

「神戸」を未来にどう活かすか、一生勝負をし続けることを誓う。

まだまだボランティアが根付かないこの国へ。

NPO が本質的に理解されない官僚大国のこの国へ。

民主主義が全く確立していないこの国へ。

市民の声が届かない、銀行や企業は救っても市民を救うことができないこの国へ。

膿がでつつも政官業の癒着と天下りがはびこるのこの国へ。

 

 

13日の会議では、「元気村のアクティビストのネットワークは消えることはない。
みんなで次のステージに行こう」という事を確認しあった。

今年もまた1月17日がやってくる。あれから7年たつ。

 

ウオーターワッチネットワーク代表 元神戸元気村副代表 草島進一

 

2002.1.17 神戸元気村 代表 山田和尚が朝日新聞「天声人語」にPICK UPされた。

 

 

■朝日新聞《天声人語》 01月17日 2002

 あのとき、たくさんの命が失われた。多くの人が、たくさんの大切なものを失った。7年前、震災で炎上する街の映像をテレビで見ながら感じたのは、自分が知っている街が廃虚に化すことへの何ともいえない喪失感、あるいは無力感だった。

 しかし、東京では何事もなかったかのように電車や車が走り、人が行き交っていた。その落差に戸惑いもした。どちらが現実なのか。むしろ、こちらの何事もないかのような日常の方が偽物ではないか。そう感じさえもした。

 実際、廃虚から立ち直っていく人たち、その支援をする人たちの姿を見たり聞いたりして、生きることの原点を教えられたような気がした。あの日、多くのものが失われたが、あの日から生まれ育ったものもあった。ボランティア活動といわれる多様な支援活動もそれだろう。

 そのひとつ、7年間活動を続けてきた「神戸元気村」がきょう解散する。神戸に単身乗り込んで炊き出しから始めた代表の山田和尚氏は「もう一度ただの50歳のおじさんに戻り、パキスタンへ行ってアフガンの人々への救援物資を運ぶ運転手をしようと思っている」。

 行政ができないことをやってきたという自負はあるだろうが、山田氏にはなお気がかりな点がある。「自立するのを助ける」。この意識が行政側にもボランティアにもあって「単に困っているだけの」被災者との摩擦を招いたことだ。お互いに自立した人間として接するべきだ、と。

 山田氏は17日早朝、六甲山頂から神戸の街に頭を下げて「お礼」をし、区切りにすると語っていた。

 


バウさんの逝去に


阪神淡路大震災からこの1.17で20年。

私が神戸で3年ともに活動した神戸元気村代表 バウさん 山田和尚が1月5日、亡くなった。

とても大きな人だったと思う。あのとき、バウさんがいなかったら、「ボランティア元年」までの動きにはならなかったと思う。

 

 初めてで出会ったとき「まず行動だ。ここはアフガンやチェチェンじゃない。陸続きの神戸だ。会社に有給をとって集まってほしい」とメディアに呼びかけていたことを覚えている。何を迷っているんだ。とにかく神戸行きの切符を買って電車に乗ればいいんだ。と語りかけていた。「行動すること」からすべてが始まるんだということ。僕自身、何ができるか不安のまま御影公会堂の玄関まで4時間かけて歩いて行き、バウさんと出会い、バウさんが用意したキャンプキッチンセットで、集まったみんなと見よう見まねで炊き出しをつくって千人以上並んだ方々に手渡した。器を手に涙流して喜んでくださったおじいさんおばあさんを前に、もらい泣きしながら自分の中でなにかがはじけた。あとで知ったがそれが阪神間で最初に「あったかい食を提供した炊き出し」だった。このことが報道で広められ炊き出しの輪が方々で広がっていったのだった。僕は3日で戻るはずの会社をついに辞め、3年間神戸で山田とともに救援活動に打ち込んだ。

 バウさんて何でバウというの?と聞いてみたらカヌーをやる人らしいということだった。僕も当時長良川を守る運動のみんなと毎週のように那珂川、気田川などにカヌー、カヤックにでかけていた。だから冗談も込めて「んじゃ僕はスターン(船尾)ということにしようかな」といってみた。
そこから名前で呼ばれなくなった。

 川下りのカヌーでバウマンは、先を読み、船の方向を決める。スターンはそれを受けて舵をきる。急激な動きは2人で舵をきる。バウさんは常に3歩ぐらい先を読んで次の方策を僕に打ち明けた。夜中にリサーチして日中に「次はこれや」と伝えてくれる。

 元気村での活動の中には、集まった方々の多様な能力や発想から生まれたプロジェクトもあるが、メインの軸のプロジェクトはバウさんが発案したものだった。次の方策を次々と見つけ、キーパーソンをつなぎ、コーディネートする。今でも思うが抜群のセンスで被災地の次々と変わるニーズを読む人だった。当時29歳の僕は突然の「次はこれや!」に翻弄されながらも、いわば必死でついて行った。そしてそれまで全く会ったことのない多くの方々と出会い、次々と企画が持ち上がり一つ一つを実行に移していった。

結局、テントで150日、公園暮らし1年半。ようやく風呂に行けたのは1ヶ月後だった。

でも、それまでには体験したことのない、無尽蔵の力に満ち、実に充実した太い「今」の連続を生きていたように思う。僕にとって神戸はまさに第二の人生のはじまりだった。バウさんに出会っていなかったらそれは開けなかった。


 神戸での息抜きは長良川や四万十川でのカヌーだった。オープンデッキのカヌーの底知れぬ魅力を僕はバウさんに教わった。カヌーの腕もさすがだった。

 

改めて人生最大の恩師に感謝したい。

ありがとう、バウさん。001 AS20150112002480_comm

昨日、10日にバウさんのまわりで再会したみんなと相談しながらリリースをようやく打てた。各紙報道されるバウさんの姿を見つつ、その偉大さを改めてかみしめる。この朝日の写真もとてもいいし各紙の緑色のパタゴニアフリースのもとてもいい顔だ。6000人もの犠牲を出した神戸で「ボランティア元年」の希望をつくりだしたボランティアコーディネーターの先駆け、大先達に合掌。

http://digital.asahi.com/articles/ASH1D72XLH1DPIHB02K.html

 

 

 

 

 

 

 

e0078900_22354022


1月11日は、ダムネーション上映会へ


 

 

1970424_806722176015687_337217237603909303_nこのブログでは直前のお知らせになり、申し訳ありません。1月11日、映画ダムネーションの上映会をおこないます。どうぞ皆様お越しください。

このダムネーション。世界のアウトドアブランド、パタゴニアがプロデュースしており、映画にも社長のイヴォンシュイナードでています。現在700以上のダムを撤去して川を再生している、ダム先進国だった米国の状況。ダムとは何なのか。を把握できるとてもいい映画です。上映後若干の時間を使って、最上小国川ダム問題。他、山形のダム問題についてお伝えしたいと思います。どうぞお誘い合わせの上、お越しくださいませ。鶴岡まちなかきねま 7時開場、7時15分から1回のみ上映 9時まで。

上映後若干の時間を使って、最上小国川ダム問題。他、山形のダム問題についてお伝えしたいと思います。

FACEBOOKイベントページ

https://www.facebook.com/events/1520726198206443/?ref_newsfeed_story_type=regular&fref=nf

80名の会場。まだ大丈夫です。参加希望の方は人数把握のため、イベントページの参加を一押しください。


2015年 元旦 あけましておめでとうございます。


Exif_JPEG_PICTUREExif_JPEG_PICTURE元旦 荘内神社近く致道館前から。年頭のご挨拶をさせていただきました。

昨晩から、神戸から戻ってから毎年欠かさず参加している松例祭に参加。午前3時の歳旦祭から新年を迎えました。
 

ユネスコ食文化創造都市に認定された鶴岡市の食文化。それを支える水、土、風土、自然の力。改めて足下の自然資本を見なおし、今もっている地域ならではの価値をまずは守り次世代に受け継ぎつつ、多様なつながりの中で新しい価値をつくりあげていく。そんなことが重要だと考えています。

 

 課題は人口減少。露呈している、環境の面でも社会の面でも持続不可能な社会のシステム。3.11を教訓として、これを如何に真の持続可能な社会に変えるかは当面の私の政治の使命。提言し続けている、山形の暮らしを支えているかけがえのない自然環境を地域経営に活かす自然資本経営もその一つです。


 今年は私が政治を志す原点になった阪神淡路大震災から20年。「神戸」を今、活かせているか。更に問われる年となります。又、今朝の山形新聞に紹介ありましたように今年4月には県議選があります。今年もしっかりと前進して参りたいと思います。

今年もどうぞご指導、又、ご支援賜りますようよろしくお願いいたします。