持続可能な鶴岡ブログ

持続可能な鶴岡ブログ
トップページ > 持続可能な鶴岡ブログ > 月別ア―カイブ: 1月 2007
月別ア―カイブ: 1月 2007

三川町長選


三川町長選。

三川町長選開票結果 22時05分 (選管最終)
当阿部誠氏   2881票
 梅津泉氏   2121票
 佐久間修一氏  243票

明らかに阿部氏の勝利
「自立」を選択した町民の選択を尊重したい。

これからの鶴岡市政運営。事務組合の問題など、これから早急な議論をしなければならないが、自立の道を選択した三川町とともに、何が住民にとって最善の道なのかを見極めなければならないだろう。
 合併してもしなくても、財政危機と右肩下がり時代の地方都市としては一緒である。
知恵を絞ってお互いの持続的発展の道を模索していくことが必要だ。

 イギリスのブライスは「(民主主義の源泉たる)自治は民主主義の学校であ
る」と言った。元総理の石橋湛山は「地方自治の比較的重要なのは、その小なりにあり」と言っている。
 
 要するに、実践と当事者意識なしに民主主義は機能しない ということなのだと思う。

合併した鶴岡で僕が疑問に思っているのは、行政がさらに内にこもって「調査だ研究だ」とはじめていることだ。14万市民と一緒に考える姿勢ということが皆無というか、さらに官僚化しているように思えるのだ。「官僚的な、継続的考えの下でのシミュレーション」と、政治は僕は違うと思っている。過去の継続を断ち切れることこそ政治であり政治は漫然とした流れにダイナミズムを作り出してこそ政治だと思うからだ。

 それを考えれば、まあ、数の問題だけでもないかもしれないが、要するに三川町で町民が知恵を絞って次々と小さな規模で「自治として」社会実験を行うような姿勢を期待したい。いずれにしても、町民の選択、支持を受けたわけだから、徹底的に小さな町の大きな挑戦を行動してほしいと思う。
 そうしたら、今後、三川町の存在というのは、鶴岡市にとって互いに切磋琢磨できるパートナーになれるのではないだろうか

 鶴岡も、合併すれば以前の発想で行政運営ができるなどと考えるのではなく、この時代にふさわしい発想の転換が必要なんだと僕は思っている。それは何か。さて、みんなで考えましょう。

 



財政危機宣言


昨日のみのもんたさんの「ズバ」スペシャルご覧になりました?

僕は録画しておりましたが、わざわざ電話で番組を教えてくれたKさん、ありがとう。
 財政再建団体に陥った夕張市。炭坑が盛んだった頃に作られた市営住宅にぽつんと住んでいるご老人の姿。
 夕張の他にも合併特例債だから有利な起債だ。などといってつくられる大観覧車。 通れない農道 「国のカネだから、、、」という「言い訳」で税金がムダに使われている。
 
田中康夫氏は、この破綻している夕張に1500置く北海道と国は全国で2番目に大きなダムをつくっているんだ。ダムをつくらないと献金が来ない政治家がいるからです。これを変えなきゃいけないということを指摘しました。

 自民党舛添氏は、道州制をもちだしたが、そんなことがこうした事の解決になることではない。またこれまでの三位一体改革についてもがんばっている。シーリングかけているなどと言及しましたが、全く説得力がなかったですね。

日本の借金 775億円。一人あたり607万円の借金。
世界と比べると、先進諸国はほとんど借金を減らしている。
日本自体が政府こそが緊急事態制限をださなければならないのではないかと民主党長妻議員は指摘しました。

実際「国のかねだから、、、」というフレーズは、よく役所との議論の中ででてくるのです。僕が研究所問題を追求するときも、「議員は●億円というけれど実際市の負担は●●億円です」などと答える。実際18年度予算で合併後の特例債第一号のメタボロームキャンパスに8億円にしても「大半は国からの補助金、交付税補填される」などと言い訳が返ってくる。しかしこうした思考回路の元で借金は増えてきているのだ。

ダム問題然り。1780億円の月山ダムの事業。市の負担は水道に関わるアロケーション7.4%だけだといっても131億円である。
 
  熱海の斉藤市長 「財政再建団体に転落することは必至であり、市の財政は危機に直面している」と財政危機SOS宣言。を出し、観光協会と議会の反発を受けていたけれど、実際基金がどんどん減っていき、赤字に転落することが予期されればそうした宣言を出して危機感を高めていくことも大事だと思う。

熱海市は、17年度の実質起債比率 16.9%である。鶴岡は今17.9%で来年から18%を超えることはほぼ明らかである。熱海市よりも財政危機なのである。
 
 実にいい番組だった。皆さんもそう思ったに違いない。鶴岡市政、来年度予算は20億円の歳入不足が見込まれ、更に基金がとりくずされる事は必至だ。

 今日は、最近特に水沢地区の土盛りが目立つようになった、高速道路の事をヒアリング。温海→鶴岡間で、1240億円。身近に巨大公共事業が進行しているのだ。

借金1000兆円超の日本。モラルハザードから抜ける一手が今こそ必要だ。

やっぱり継続審査。世界遺産。


世界遺産。
最上川と出羽三山。12月議会で僕も予測したとおり継続審査扱いでしたね。

「最上川と出羽三山の関連性」が課題などと指摘されていたけれど、それには、やはり、芭蕉の「奥の細道」の探求だろう。「奥の細道」の「奥」とはどこなのか。いろんな説があるらしいが、私の恩師でもある、宗教学者の鎌田東二先生は「奥」とは出羽三山の月山、そして奥の院である湯殿山である という説を説いている。
 出羽三山詣での事をその当時、「奥参り」と称してお伊勢参りと同様に大切にされていたと聞く。「奥参り」の文化を深めていくことが肝要だ。

 
 年明けから、事務所の片づけをしている。今日はくるりん館に事務机と椅子を持っていく。机500円。椅子一脚300円の手数料。合計1700円。
 聞けばある一定程度まとめて、解体、焼却処分になるんだそうだ。うーむ。もったいない。リサイクルを進める施設「くるりん館」としては、リユースのセンターとして全く機能していないことに改めて気づかされた。以前、僕が東京に住んでいた時、狛江市で役所の中にリサイクル情報コーナーがあった。学生の僕は、そこで持ち主とのやりとりを通じて、まあまあの学習机をゲットした覚えがある。
 粗大ゴミとして出される家具などにはまだまだ使えるものも多いはずだ。リサイクルショップでは売れそうもない物は扱わない。「くるりん館」のような施設にこそこうした機能があっていい。もったいない と思わずにはいられなかった。

 さて、皆さんに質問です。「くるりん館」に受け入れをする粗大ゴミで最も手数料が高いものは、何で、手数料はいくらでしょうか。コメントに答えをください。

さあて、何でしょう。役所の皆さんも匿名で結構ですからどうぞ。
 
 
 
 

10年前


今日という日 10年前 日本海重油災害 が あった日だ あの時 僕は 神戸で HP SAVE THE COAST! を 立ち上げ その後 8台のMAC とともに 三国町 にはいりその後加賀 の現場で4ヶ月活動した。 ヒシャクで油をすくう 途方もない作業に15万人が集まり 次第に海は青さをとりもどした。市民の行動による奇跡を思い出す  今朝は八文字屋前 アメニモ ユキニモマケズ・・・


明るいニュース


官製談合、事務所費不正利用。相次ぐ事故、不二家の不祥事 などなど、年明けどうもいいニュースがない中で、1万円の予算で行った成人式に次ぐ明るいニュース。宮崎県知事にそのまんま東氏が当選したとの事。それもぶっちぎりの快勝!である。
 元タレントだけマスメディアでは紹介されているけれども、東氏は一度不祥事で逮捕され、0になり、それから再起。早稲田大学で学び直し、今回、マニュフェストを掲げてチャレンジしている。僕もはじめは、冗談か?と思っていたのだけれど、HPを見て、その本気さに、思わず応援メールを送ってしまった一人である。
 まともなことを正々堂々と訴えての当選だ。まずは良かった。しがらみのない草の根民主主義が育まれることを見守りたい。

 さて、三川町長選が本日からである。
先週の金曜日の朝日新聞朝刊に、「破談 きしむ鶴岡市」として特集が組まれていたのでご覧になった方もたくさんいると思う。
見出しだけひろってみよう「消防庁舎は特例債前提」「合併でさらに「借金苦」悪化」「旧町村 住民負担増す」「旧町村「貯金」使い果たして」「研究所補助に2町基金分」「交付税伸び率倍増 国頼みに先細りも」 
 
 こうした選挙を通じて、鶴岡市政の財政や実態について分析が進むことは有意義なことだと僕は考えている。要は、当事者として「考える人」が増えることが第一だからだ。これからは、本当にみんなで知恵を出し合ってチェックし、予算執行のあり方を考えていかなければいい町はつくれない。

三川町の町長選。誹謗中傷合戦ではなく、真摯に真実を伝える選挙戦にしてもらいたいものだ。

赤川 生き物救出作戦


10時集合で赤川、鶴羽橋下の堰堤ブロック改修現場へ。
工事にともなって死滅するおそれがある魚類や昆虫を安全な場所へ移す作業のボランティアである。
 ドブナガをはいて大きな網を持ち、それにはいるようにして足でごろごろと砂利や石を転がす。網をあげると、カジカ、ヤツメウナギ、ハヤ、などが4,5匹、かかっている。全部で20名ぐらいだったろうか。大物狙いの人は大型のナマズやウナギをごろごろと網にいれ、アカザという貴重な魚もとらえられた。食べ頃サイズのカジカがたくさんいた。川沿いの土を手で掻いているとぼろぼろと小型のヤツメウナギがでてきた。全部まとめて上流の安全なとことへ放流。

 赤川に、こんなに多様な魚類がいて、生態系が営まれているということ。現場で改めて知った。実に有意義な2時間だった。
 
 赤川の再生事業の一環としての魚道づくりということだそうだが、工事関係者、魚類研究者などが一緒になってこうした事をおこなう意義はあると思う。
 しかし、本当にこの再生事業が「自然再生」という名にふさわしい事業なのか、
更にチェックをしていきたい。

寒だら祭りなどなど。


寒だら祭り。11時過ぎにいったら役所の駐車場は満杯。旧荘内病院駐車場へ、好天気に恵まれて例年の2割増しの大盛況とか。良かったし、どんがら汁はとても美味かった。弁慶結びにきなこモチなど食す。会場。いい笑顔が広がっていた。新たな試みのおきつねはんもその隣のお菓子ブースも含め、とてもいい仕掛けではなかったか。なかなか良かったのではないでしょうか。途中川端とおり近くの大判焼きを買って帰路へ。

なんといっても美味いもんはいいですな。

その後、寒梅忌に寄ってから6コミ新年会へ。テーブルを回っていると朝日新聞の特集記事へのご意見などを多数頂く。

もう一つの生き方


今日、5時46分。鶴岡。私の事務所コモンズでテレビをつけ、神戸の方向を向いて黙祷する。6434名の犠牲。がれきの山の町。サイレンとヘリコプターの音 黒々とした煙。遺体。絶望的な情景は今でも心に焼き付いている。そしてこの日。毎年ろうそくの炎を見ながら、一瞬のうちに消えてしまった命と、あの社会を振り返る。
 「ボランティア元年」という言葉を生み出し、「神戸から未来が見える」と現在、朝日新聞の報道局長の外岡さんは書いた。あのとき見えた光は今、どうなのか。
 市民社会の到来を、希望の光として見ていたあの頃予期したような社会になっているのだろうか。
 今朝のNHKの番組で当時 ちびくろ救援隊を組織し、一緒に活動していた村井さんがNGO CODEの代表としてとても大切なメッセージを発信してくださった。「絆」と「もう一つの生き方」という事だ。
 中越で元気に活動している良太君の姿もカメラは捉え、着実に支援をおこなっているなあと感動したし、CODEの仲間たちのとてもいい顔が、テレビに映されることはとてもうれしい。
 元気村の時、テント生活150日、スーパーハウスに1年半。暮らしながらも僕らの心は何か満たされていた。全国から集まる寄付金で、なんとかかんとかやりくりをし、日々の活動を続けていた。アルバイトをするよりも、今、神戸にどれだけ愛を注げるか
。そうした意志をもって行動するか。なんて、まともに考えて、日々を過ごしていた。

 今、僕はそのときの気持ちのまんまで、ダム反対運動も、地下水保全の活動も、平和の活動も、理不尽を指摘し変える活動も、そして市議会議員の活動もやっているつもりだ。

 もう一つの生き方。金が真ん中にあるのではない。愛が真ん中にある活動。その行動に一歩踏み出した時のエネルギーの高まりと、それを受け止めてくれたときの感動
そして同じ思いでつながる絆。
 米国サンフランシスコのNPOにインターンしたとき。このエネルギーのまんま、それを職業として闊歩する多くの人たちに出会った。社会をよく変えることが職業。
ほぼ普通の会社の給料と同じぐらいの給与で、実に堂々と、活動をしているスタッフたち。米国の社会がすべていいわけではないが、お手本はいろんなところにあるのだ。

 震災から12年目。彼らとももう一度情報交換をしながらこの鶴岡、山形、そしてこの日本で何をすべきか考えていきたい

なお、神戸元気村、当時の映像をウェブ公開します。「もうひとつの生き方」というものに踏み出しはじめた僕が映っています。 どうぞご覧ください

→ちょっと長すぎて視聴困難とのことでしたので半分ずつ二分けました。今度はご覧になれると思います。どうぞ。
http://homepage.mac.com/stern8/iMovieTheater30.html
http://homepage.mac.com/stern8/iMovieTheater31.html
http://homepage.mac.com/stern8/iMovieTheater29.html

阪神淡路大震災から12年



明日でもうあの阪神淡路大震災から12年となる。
1995年のあの日。僕は29歳、神奈川在住の一介のサラリーマンだった。
そのころ。3年半、編集部からはいった日本リサイクル運動市民の会。で、僕は有機野菜の宅配をするらでぃっしゅぼーやの神奈川センターの物流センターの立ち上げ要員で運輸の担当者になり1年半が経過していた。その頃は、ほぼ毎週のように神楽坂の会社のBFにあるエコロジーセンターで、長良川河口堰反対運動東京支部のミーティングを繰り返していた。そこに集まるみんなと、これも毎週末のように那珂川とか、気田川とか、ちょっと遠征して長良川とかに、ファルトボート(おりたたみのカヌー)でカヌーとキャンプに行くのがほとんど唯一といっていい楽しみだった。仕事よりも本当の楽しみは仕事の外にある。会社ではそんな、どちらかというとさえない社員だった。
 
 1月17日。連休の朝だった。厚木のアパートで起きた僕はテレビ映像にはまった。がれきの山と火事。もうもうとあがる煙。「どこかの外国の町に違いない」「いやまてよ」「何!?」「神戸!?」僕はぴょんと飛び起きて、それから会社にいくのだけれど、頭は神戸の事一色。仕事に全く手がつかなかった。
 神戸にもらでぃっしゅぼーやの支店があった。それと実はその代表の高見裕一氏は、神戸に事務所を構える現職の国会議員だった。
 「神戸にいかせてください」僕はその日のうちに志願していた。
 実は、神戸には僕の大親友がいた。「あいつが埋まっているかもしれない」
いくら電話しても連絡がとれなかったので、そういう気持ちがどんどん高まっていった。

 1月19日。僕らは神奈川センターから5人の派遣団として大阪センター経由で神戸で支援活動をすることになる。20日。物資満載の2トントラックで西宮にはいる。ほとんどの木造家屋の一階部分がぺしゃんこになり、ビルが折れ曲がり。道路は崩れ、電車の線路はうねうねにひんまがっていた。サイレンの音。ヘリの音。まだもうもうと煙があがっているところもあった。ラジオでは、約二〇〇〇人とか三〇〇〇人とか犠牲者の数が発表されていた。どんどん犠牲者の数が増えてくる。はじめは会員さん宅に届けようとしていた物資だったが、どこに誰がいるのかなんてほとんどわからない。とにかく路上で暖をとっている人たちに物資を手渡していった。
 西宮駅前に実家があった親友の家も訪れてみると、全壊家屋。「全員無事。●●●●にいます」の張り紙。ほっと一安心。その日。芦屋川より向こうは危険としていわれ、その日は断念。

 一月二三日。三田市経由で電車をのりつぎ、大阪から三時間かけて新神戸に着く。「バウさんという市民運動をやっている人が御影でたきだしをはじめた。みんなで手伝おう」そんな指令。五人の派遣隊の一人として新神戸からR43号、R2号をつうじて、御影公会堂まで約四時間歩く。ビルが倒れている。線路がひしゃげている。路地に入るとがれきの山。ショールームのガラスが飛び散り見る影もない。電信柱が軒並み倒れている。至る所の道路が割れ、段差ができている。ラジオでは「医療、看護士など専門家の方以外は立ち入らないでください」などと流れていた。
ところどころで一斗缶に自分の家の柱をくべて、暖をとっている人の姿。声もかける気がしない。
黒こげになってまだくすぶっている一帯。深緑の制服とヘルメットの自衛隊が掘り起こししている現場。まだ誰か生き埋めになっているらしい。「こんなところに来て、僕らみたいなのが何の役に立つのだろう」御影というところに近づくにつれ、不安も増していた。

 都市壊滅の中を歩いたこの四時間はまだ鮮明に心に焼き付いている。立派な道路もコンクリートのビルディングも、地震で崩れた。家具や家の柱やコンクリートブロックでつぶされた人たちは亡くなった。時には家とともに焼けた。灰燼と、絶望的な空気の中、どんどんその空気に飲まれるようにして歩く。サイレンの音。報道ヘリの音。
 御影公会堂。ひげのバウさんに会う。とにかく握手。「なんとかしましょう」「なんでもやりますので言ってください」「今、みそ煮込みうどんつくってるねん」「は?」
と見るとでっかい寸胴とプロパンガスボンベと、五徳。一千人分ぐらいの食材。「今はあったかいものが大事や、一緒にやってくれるか」「はい、なんでも」
 それまで作ったこともないようなみそ煮込みうどんを大鍋でつくる。無我夢中で、材料を切り、大鍋にいれていく。ようやくなんとかできた。
 
 御影公会堂には当時約二千人もの方々が避難していた。「できたよー。」バウさん。ずーっと列ができる。数千人の人たち。おじいちゃんもおばあちゃんも、子供達も。血のりが顔についている人もいた。包帯の人も。みんなずっと並んで次々と僕らが今つくったみそ煮込みうどんを食べ始めた。「大丈夫かな 」僕らは正直不安だった。もちろん味に自信があるわけじゃない。食べ始めたおじいちゃんやおばあさん。
「おいしいなあ」「あったかいわ」「ありがとう」「ああ、やっとほっとした」
中には涙をためて、そういうおばあさんがいた。
 肌寒い空の下、崩れたコンクリートのブロックに座り、お椀をかかえたおじいさんが、うつむいて、涙を流し、汁をすすりながら、ありがとう、ありがとうと何度もお礼をされた。

僕は、その瞬間の事を一生忘れないだろう。そして、その瞬間、何か僕の中でこれまでの人生では味わったことのない力に包まれていた。別次元のエネルギーのような感じで満たされていたのだ。

亡くなった肉親。倒壊した自分の家。「すぐ近くの小学校に家族の遺体があるんだよ」という人など深刻な状況の中、とにかくよそもののど素人がつくった味噌煮込みうどんは、なんと涙で迎えられた。


そして、その時、なんとこの鍋づくりに被災者でありながら、当初から関わってくれた人がいた。原さんというその界隈の世話役の方とそのご家族だった。ジャージ姿の原さんは、兄を震災で失ったといっていた。「でもいつまでの泣いていられへん。自分らが何かせんと」と言って「君らはそうか、東京の方から来たんか、ありがとうな」といって一心に一緒に鍋をつくった。原さんが声をかけてその親戚の方を含め七名。それから一週間以上もの鍋づくりをやり続けた。原さんとは初日からうち解けていろいろ話をした。

僕ら五名の派遣団は、その日は御影公会堂の中で被災者の方が使っていなかったホールの中の観客席で寝袋にくるまって寝た。そして朝起きると、鍋

歌会初め


朝。八文字屋でつじ立ち。雪多少。子供達が結構興味津々で聞いてくれていたのが印象的。結構力はいる。美しい国といいながら醜い国の様相になっている国の政治、穴あきダムに固執している、旧態然とした公共事業推進の県の姿勢。情報不透明、いまだに私立大学の研究所の研究員のお給料に、年間3億円、市税を投入している市の姿勢。
 
 真実をきちんと語ると、やっぱりおかしいとしか思えないことを語り続けて1時間。
体の芯まで冷えるな、やはり今の時期。


 さて、今日は皇室で年始めの歌会初めがあり、しばしテレビに見入った。

月はしづかに   天心に浮き
足早に 歩く我らを  見守らんとす   選者 

ふり注ぐ  月の光に 照らされて
雪の原野の  木むろ 浮かびて     皇太子殿下

この2首が僕は好きだ。
秋田、仁賀保市のご住職で、「月山」をとりあげてくださった方もいらしてうれしかったかった。

特に皇太子がとりあげた一首は、スキーに行った際に見た、月夜に照らされた雪原の美しさの感動を表したものだそうだが、実に僕はぱあーっと情景が浮かんだ。青白く月に照らされて輝く雪原の美しさ。月に照らされて輝く木立とその影。これを眺めるには寒さをこらえて外にでるか、薄暗い部屋から外を眺めるか。殿下が実際、どうやってこの美しさにたどりついたのかはわからないが、なんだかこうした美しさを歌にしてくれた殿下に賞賛を送りたい気持ちになる。そうだな。雪国に暮らしている鶴岡人、山形県人、東北人の多くは共有できるかもしれない。それとこのさぶい雪国を訪れ、そして自分の目でその美しさを感じようとした人のみぞ知るというものかもしれない。
 

 もう随分と前の話になるが、98年。旭硝子財団のブループラネット賞の受賞を米国環境保護活動家、デビッドブラウアーさんが受けたとき、帝国ホテルで受賞パーティがあった。日本側NGOのサポートとして参加していた僕のすぐとなりでブラウアーさんと結婚したばかりの殿下と紀子さまが談笑されていた。なんだかその時のイメージがこの歌に連動して思い浮かんだ。
 
 日本の本物の美しさの保全と再生のために、行動する。

これが僕の当面のミッションだ。

 選者の方の短歌はさすがの一言だが、時には、静かに僕らを見守る月を見上げ、月夜で輝く雪原や、月の光を浴びる事も大事にしたい。次の満月はいつだろうか。

さて、今日のニュースで山形県が鶴岡病院の老朽化の問題をとりあげ、来年度600万円を計上し、基本計画の査定にはいろうとしているとの報道があった。

 精神医療、精神科の病院については、それこそ多様な声があるはずだ。今、いじめ、自殺、心の悩みは社会を包む大きな問題であり、僕はこうしたことにこそ、しっかりとした政策が必要だと考えている。

 鶴岡病院の改築だが、場所はあそこで果たしていいのか。いまどき牢屋のような部屋でいいわけはない。最もいい隔離病棟のありようとはどうなのか。社会復帰のためのリハビリ施策のためにはどこがいいのか。などなど。課題は山ほどある。
 
 患者にとって気持ちのいい施設であることはいうまでもないが、気軽にこうした病院に通院できる。また、決して差別的に扱われない。また本当に再生できる。
 など、県内、市内でもそうだが、都会で悩んだり傷ついたりしたときにちょっと「鶴岡の病院にいって来る」といえる。実際長野あたりでそうした病院があるような事も聞いているが、そのために何をしなければならないのか。等々考えなければならないことがある。

これは市民の皆さんにとってもアイデアのだしどころだと思う。匿名でいいのでぜひ声をお寄せください。僕もこの重要施策。きちんと現場取材を続けていきたい。