鶴岡市に段ボールベッドが1260基 導入されました!令和2年決算より。
鶴岡市に段ボールベッドが1260基 導入されました! 令和2年決算審議 市民文教委員会にて
令和2年度の決算において、災害対策費の中で、新型コロナウイルス感染症対策として、段ボールベッドとパーテーションが1250個、9,605,200円分導入されていたことがわかりました。新型コロナウイルス感染省対策の国の予算がついたために導入できたとのことで、指定避難所に配備したとのこと。ただし段ボールベッドはかさばるので、1箇所で保管し対応するとのこと。段ボールベッドについては、以下、一般質問でとりあげ求めて来たものであり、大いに評価したいと思います。今後は避難所対応として素早く1000台を超える段ボールベッドを並べることができるということです。パーテーションと一組ということですので、雑魚寝の風景が仕切りあり(個室)、ベッド対応という風景に、ガラリと変わるということです。ささやかながら提言が実りました。
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とりあげた一般質問はこちら
→2019年9月議会 一般質問より
、、、もう一つ質問を続けます。私は所属するNPO等を通じ、2004年中越地震の被災地支援からプライバシー確保、エコノミークラス症候群防止の観点でテントや簡易ベッドの普及の活動をおこない、熊本地震からはエコノミークラス症候群の日本の権威である新潟大学 榛澤和彦先生を代表理事とする避難所避難生活学会の先生方と「災害関連死ゼロを目指し、避難所の風景を変えよう」を掲げ簡易ベッドの普及の活動をおこなっております。今日お配りした参考資料は学会の先生方と共同執筆し5月発刊した書籍であります。今般大阪北部地震では茨木市職員用にキャンプ用ベッドを貸与し、避難所で段ボールベッドを並べました。
又西日本豪雨では、7月10日に倉敷市にキャンプ用ベッドを11台提供し13日に真備地区の避難所で段ボールベッドを搬入し、14日にその避難所 薗小の避難所ですけれど、約300名被災者全員をベッド生活に変える事ができました。
榛澤医師によれば避難所はゴミ、埃、衛生面を考慮したり、起き上がりやすさを考慮すれば、病院と同様にベッドが必需品を標準にしてほしい。ということであります。難民支援のための最低限の基準であるスフィア基準でもベッドは必需品になっています。
今般は、政府によるプッシュ型で配備したはずのベッドなのですが、自治体でかなり捉え方にばらつきがあり未だにならんでいないところもあるというのが現状でございます。
又、被災地で自治体職員は寝る暇もなく災害対応に追われるのが常でありますが、これまでの被災地で地べたに布団や寝袋で仮眠する光景も何度か目にしました。
こうした経験から提言をしたいんですが、私は当市では避難民全員にベッドを支給すること。職員には簡易ベッド等で仮眠を取る、を常識にしていただきたいと思います。 小規模災害の避難所対応、市役所職員用そういうことをとして50台〜100台程度のキャンプ用ベッド、コットを早期に備品として整備されることを提言します。
段ボールベッドも速やかに並べられるように、導入に際しての協定を結ぶことを提言します。
ドーム型のキャンプ用テントは体育館などの避難所で着替えやプライバシー確保に有用であり、少数からで結構ですので整備を提言します。又、車中泊の避難も十分想定されますのでエコノミークラス症候群対策として、弾性ストッキングが非常に有効とされております。これは市民の皆さんにぜひ呼びかけて頂きたい、これを提言をいたします。答弁を求めます。
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危機管理監
次に職員用簡易ベッドの整備についてお応えします。被災地の自治体職員については、厳しい環境の中で災害に対応されていると伺っております。簡易ベッドの整備につきましては、配置場所の確保といった課題もあるかと思いますが、実際に導入している自治体の調査をするなど検討をしてまいります。
次に段ボールベッドにつきましては、最近では熊本地震や西日本豪雨災害における避難所で費用実績から簡易ベッドとともに被災者の疲労を軽減するものと認識しております。本市でも今年度検証用としてダンボ-ルベッド4台を購入いたしました。今月23日の鶴岡市総合防災訓練において使用し、実際に参加者から組み立てや寝心地を体験していただきます。こうした訓練での使用による検証の他、被災地での使用状況についても調査研究してまいります。
災害救助法に該当する大規模な災害になった場合は、国から救援物資として被災自治体に供給されますが、届くまでに日数を要しますので、避難所に速やかに供給できる体制作りとして、協定を締結することは有効であることから、段ボール製品の供給に関して協定を締結している他の自治体を参考に検討してまいります。
次に避難所におけるテントの整備についてお答えします。本市では、避難所のプライバシー確保対策として、避難所の施設内に更衣室を設け、着替えや妊婦授乳者などのスペースとして利用するほか、間仕切りを活用した居住スペースの確保を想定しております。しかし、長期間にわたる避難所生活において、被災者のプライベートな空間の確保として、テントも有効な手段の一つであると認識しております。今後被災自治体の使用例やスペース面の課題などを調査研究してまいります。
次に災害関連死ゼロを目指した必要な物資の整備についてお答えします。熊本地震では亡くなられた269名の内、災害関連死は214名にのぼり、避難生活の疲労や環境の悪化が大きく影響しているものと認識しております‘。避難所ではふだんどおりの生活ができず、被災者はさまざまなストレスを受け、災害関連死の原因となるエコノミークラス症候群や感染症が発生しやくなるため、避難所生活における災害関連死の予防策や被災者の移住空間の確保についても、さらに検討する必要があると考えております。議員ご紹介の弾性ストッキングは、下肢に圧力を加え、うっ血症状を改善するストッキングであり、主にエコノミークラス症候群を防止する効果を持つとお聞きしております。’
本市では、発災後に不足するトイレや寒冷地の対策として、暖房器具の配備に取り組んでおりますが、弾性ストッキングなども含め今後更に被災自治体から避難所で必要とされた物資について、情報を収集し、被災者のケアについてもあわせて調査研究して参ります。以上です。
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大阪北部地震支援!そろそろ避難所の風景を変えましょう!
大阪北部地震 (2018年(平成30年)6月18日(月曜日)7
犠牲になられた方のご冥福をお祈り申しあげますとともに、避難されている皆様に心よりお見舞いを申しあげます。
今般茨木市 桂睦子市議会議長様と連絡をとりあい、避難所避難生活学会(代表 榛澤和彦 新潟大医師)とともに以下のプロジェクトを立ち上げ支援活動を展開中です。
簡易ベッドを避難所の被災者に提供し、雑魚寝の解消を。
「避難所の風景を先進諸国の常識に変え、災害関連死ゼロに」
阪神淡路大震災以降、昨今の東日本大震災にいたっても被災地で避難者は体育館に布団が敷かれ、雑魚寝が常道でありました。
そのために災害で命はとりとめたものの、車中泊や避難所でエコノミークラス症候群になって命を落とすケース、避難所の体育館の地べたに布団といった、ゴミやカビが漂う中就寝することで、劣悪な環境の中で健康をこわしたり、睡眠がとれず身体を休めることができない結果、命が失われるなどの関連死のケースがありました。
段ボールベッドやキャンプ用簡易ベッドの利用はエコノミークラス症候群対策としても、快適な睡眠を確保することができ、健康を維持できる点においても、大変効果的であることが、東日本大震災以降、避難所支援をおこなっている数多くの医師、研究者(避難所避難生活学会)の実践によって証明されています。又、イタリア、米国の被災地では被災後、直ちに政府調達の「ベッド」や家族単位のテント等が配給されるのが常識であり、避難所の国際基準スフィア基準にもベッドが常道となっています。
今般の大阪北部地震の現場でも茨木市 桂睦子 市議会議長様から避難所で避難する高齢者や子供達の健康の心配の声が届いています。
スフィア基準に準じたベッドの利用を、私達は実現すべく政府にはたらきかけています。今般の大阪被災地でなんとしても「避難所の風景を変える」事を実現したく行動しております。何卒ご協力のほどよろしくお願いいたします。
「避難所の風景を変えましょう!」は阪神淡路大震災より、災害が起きる度に被災地支援で動き続けてきた草島の信念、そして3年前から活動をともにしている「避難所避難生活学会」(榛澤和彦 代表)の念願でありました。
この春、避難所避難生活学会の先生方とともに、「避難所づくりに活かす18の視点」(東京法規出版)に執筆しました。
大阪現地で避難所運営に関わる皆様に必ず参考になると思い、現地に出版元よりご送付いただいておりますが、私が書いた部分だけについて、このHPで特集させていただきます。
出版記念シンポジウムの動画も届きましたのでご覧いただければと思います。
避難所の風景を変えましょう!
阪神淡路大震災から22年。
2017年1月17日。
阪神淡路大震災から22年。
テレビに映し出される竹灯籠を見つつ、5時46分 黙祷。
御影公会堂、石屋川公園、長田、、、当時が思い出されます。
あの時、朝日の外岡秀俊さんが名付けてくださった「ボランティア元年」から22年。
現場で3年間、動いた 行動から、僕の今の全てがはじまりました。
神戸元気村。やはり代表のバウさんとの出会いは、大きかった。僕は自信と前を向いて力強く歩む力、0から1を創造していく力をいただきました。
神戸をなんとかしたい。と、集まってきたみんなと、瓦礫の神戸で笑顔を作り出すひとつひとつをつくりあげることができました。
その時の私には過去も未来もない、今しかない。その太い今という瞬間が連続していました。
その2年後に起きた日本海重油災害では神戸での被災地の中と外との情報の乖離の問題をなんとかしようと現場とPC画面とに向き合いました。
それから中越地震、東日本大震災、熊本地震とこれまでの経験と教訓を活かすべく、志を共にする仲間と行動してきました。
今、福祉現場での修行を課し鶴岡市内の福祉施設勤務の為、週末のみではありましたが、熊本地震での車中泊対策などでのテントプロジェクト、岩手県岩泉水害の初動で活動することができました。岩泉ではグループホームの現場や福祉避難所にも参りましたが、今の職場での経験も含め災害時要援護者の課題について改めて再考させられました。
又、熊本地震でのテントプロジェクトのご縁で「避難所・避難生活学会」を通じて、避難できたけれども亡くなってしまう避難所の改善の問題にずっと向き合っておられる榛澤先生らにお会いし、意見交換することができました。これも実はバウさんの発案でしたが、中越地震で700張りのテントを提供する活動をしていた私たちとして、「体育館に地べたに雑魚寝」という避難所の風景を変えることは今後も大きな課題ととらえています。
また昨年は酒田大火から40年で酒田を訪れていた復興学会の室崎先生とお会いし、本来の復興の軸、避難所の問題など、率直な意見交換ができました。昨日の朝日新聞には住宅等の耐震化が進まない現状が指摘され、室崎先生が公序の必要性を説いておられました。
今日も大勢の方々が集まっている神戸市東遊園地に設置された 希望の灯りという灯火のモニュメントには
震災が奪ったもの
命 仕事 団欒 町並み
たった一秒先が予知できない人間の限界
震災が残してくれたもの
やさしさ 思いやり 絆 仲間
この灯りは
奪われた
すべてのいのちと
生き残った
わたしたちの思いを
むすびつなぐ
とあります。
阪神淡路大震災から22年。改めて、6,434名の犠牲を今、いかせているのか。
改めて問われます。
阪神淡路からの災害支援を重ねた経験を活かし、一昨年 研修を受け登録した防災士として、(社)OPENJAPANの一員として、鶴岡の地域防災をはじめ、今、これからに活かすことに努めて参ります。
庄内の防災ー庄内平野東縁断層帯は発生確率Sクラス。
8月21日、道田町町内会で防災の講演をおこなわせていただきました。この4月24,25日に現地で活動した熊本地震現場の様子を伝えつつ、地域の皆様の防災意識に働き掛けられるようにするには。と結構諸々考えました。
そしていきついたのは、最近になって(8月19日!)リスクの表し方が変わった地震確率が高い場所にある庄内平野東縁断層帯の話。そして昭和39年の新潟地震。更に今年阪神淡路大震災から21年に5000名もの犠牲者の詳細データを分析した結果から導き出した災害実態からの防災対策。熊本地震の現場の倒壊家屋と避難所。テント支援、重機ボランティアなどボランティアの実際の現状。こうしたものを軸に組み立てお話させていただきました。
当日のレジュメは以下です。
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防災講演会 2016.8.21
道田町町内会 資料 草島進一
1)熊本地震の現場より。
・4月14日21時26分、熊本県熊本地方を震央、震源の深さ11km、M6.5の地震発生 熊本県益城町で震度7(日奈区断層帯)
• 4月16日1時25分(28時間後)には、震源の深さ12km、M7.3の地震が発生、熊本県西原村 益城町で震度7(布田川断層帯)
●88名死亡(直接死50名)避難者183,883人 4ヶ月後 1752人
●全壊家屋8,125棟、半壊 28,424棟、一部破損 約13万棟
震度7 2回の益城町 2度目の地震で家倒壊、死亡家族も
2)鶴岡は安全か? 30年確率6% Sランクの庄内平野東縁断層帯。
鶴岡 田川地区 被害想定
建物全壊 8,546人 半壊 1,7083人
死者 446人 負傷者 4,795人
避難者 16,716人
3)思い出してみましょう 52年前 新潟地震 M7.5 震度5の被害
4)阪神淡路大震災から21年からの教訓
(5036名の死体検案書から見えてきたこと NHKスペシャル)
●家屋倒壊 圧死(即死)は7% 窒息死を防ぐ 住宅の耐震化
家屋倒壊、家具転倒による 窒息死を避けるために。
→耐震診断。家具転倒防止 要援護者の家屋倒壊からの近隣の救援を。
●通電火災 対策 感震ブレーカーの普及を
5) 共助 公助 避難所対策 災害ボランティアの実際。 今後の課題
エコノミークラス症候群 2004年中越大震災で7名 熊本地震で1名死亡。
震災関連死を防ぐ。 → テントプロジェクト 貴重品掘り起こし 福祉避難所
要援護者(高齢、一人暮らし、障がい者支援)マップ作り、共有など
▽9月25日 道田町 防災訓練 午後1時〜 ぜひご参加を
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今般、庄内平野東縁断層帯と新潟地震について、改めて調べて気づかされることがたくさんありました。
まず52年前の新潟地震について、私は生まれる直前で体験をしていません。しかしながら道田町の公民館にその日集まった多くの諸先輩方が小学生だったり中学生だったりしており、色々と当時のお話をいただいたのでした。
新潟地震については、当時京田幼稚園で犠牲になったの3名の幼児の慰霊祭には何度か参加させていただいておりましたが、図書館で荘内日報社や山形新聞のの当時の記事や動画を改めて咀嚼しました。庄内地方で9名が亡くなっています。それと以前私の県政報告会でご講演をいただいた高専の澤先生から、「実は新潟地震の際、酒田の方が震度が大きかった」という事を伺っていました。震源は粟島沖。
更に昨日、鶴岡市マリカ東館でおこなわれた「どうする!庄内!最近の災害から防災を考える」市民サロン『活断層が起こした熊本地震 -活断層:庄内平野東縁断層帯は 大丈夫なのか?-』 に参加し、改めてこの地震、酒田市で震度6、そして断層型地震であったことを澤先生の講演から伺いました。
今後の庄内平野東縁断層帯の地震を考える際、新潟地震の記憶をたどることが大変有意義だということを再確認しました。
澤先生 からは、庄内平野東縁断層帯の 30 年地震発生 確率は、0~6%で地震発生確率が高いグルー プに属し、主要活断層 97 のうちワースト 16 位。一方、2016 年熊本地震の震源であ る布田川断層帯の 30 年地震発生確率は、0 ~0.9%でワースト 60 位と庄内の活断層より も低い値ですが地震がおきたの情報が事前のちらしでも発信されておられました。
今般、地震確率の表記がこの8月19日に変わったことも踏まえて、地震への危機管理を強めていくことが大切です。庄内平野東縁断層帯はクラスSに属し。特に庄内南部が30年確率6%と高いのです。
断層帯の資料を詳しく見ていくと北部はほぼ0%、南部は6%とあります。このことを改めて伺うことも昨日できました。要はこの断層帯にたまったひずみが北部は明治27年 1894年の庄内地震の際にリリースされたという推測に基づくのではないか。とのことでした。先生はしかしながら、学会内でこの論点に反論もあることを伝え「だからといって北部で安心出来る問題でもない」とのことでした。
地震災害の備えとしては、外傷性窒息、圧死を来す家屋倒壊を防ぐ家屋の耐震。家具の固定。それから阪神大震災21年目にして明らかになってきた通電火災の対策。 このことを町内でも強く訴えかけさせて頂きました。
他、福祉避難所をはじめ避難暮らしの改善も急務と思います。中越地震の際から実際におこなってきたテントプロジェクや、現地で最も活躍している重機ボランティアについても若干ですがお話させていただきました。避難所の風景はこの21年間どこまで改善されているのかもいつも突きつけられる課題。私達は阪神淡路の体験を下に、プライバシー対策やエコノミークラス症候群対策として、テントを使って頂く試みに中越地震の際から取り組んできました。先般これはBe-pal8月号に掲載頂きました。また、この9月9日におこなわれる「避難所ー避難生活学会」で発表させていただくこととなりました。
地域の防災。最新の知見や経験知を下にしっかりとすすめていきたいものです。
私としては、今後、新潟地震の皆様の体験を集めていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
熊本地震 支援 OPENJAPANの先遣隊の調査がはじまりました。
4月14日夜の震度7、4月16日 1時25分AMのマグニチュード7.3(暫定値)、最大震度6強の熊本地震。
犠牲になられた方のご冥福をお祈りするとともに現在19万人もの避難者の皆様にお見舞いを申しあげます。私自身14日の地震後、諸々思案しておりました。熊本には幾度か地下水政策の取り組みや球磨川の取材で訪れており、いち早くすっ飛んでいきたいとも思いつつ、現在勤める福祉施設の関係もあり調整中です。
平成28年熊本地震 支援 openjapanの先遣隊による調査はじまりました。
阪神淡路大震災当時「神戸元気村」で一緒に活動し、その後、新潟水害、中越地震、中越沖地震、東日本大震災、ネパール支援など、数々の現場で救援活動に携わった吉村誠司君が4月16日に現地にはいりました。現在現地調査中です。
私もopenjapan理事の一人として、後方支援として現地の先遣隊の動きを伝えるとともに、より効果的な支援策を皆でつくりあげていきたいと考えております。
OPENJAPANは、神戸元気村や東日本大震災で被災地支援にあたった有志によって立ち上げた一般社団法人です。
東日本大震災以降、NGOと行政のプラットホーム会議の立ち上げや、ボランティアの滞在拠点、支援ベース絆をつくり、継続的支援の活動をおこなってきました。宮城県石巻に拠点をもち、現在東日本大震災支援でコミュニティ・カーシェアリング事業、IBUKI古民家再生事業などをおこなっています。今般熊本に向けての支援活動をはじめました。
オープンジャパンの緊急支援活動は、
心ある皆様の支援のおかげで活動させていただいております。
被災地への継続的な支援の活動を行う為に、
緊急支援のサポート、ご協力をよろしくお願いします。
郵便振替口座 02250-5-126661口座名 一般社団法人 OPEN JAPAN
●他の金融機関から 店名 二二九(ニニキユウ)店 当座 0126661
防災士講座の受講とこれまでのふりかえり
昨日、本日と防災士講座を受講しています。如何にこれまでの経験を地域防災につなげるかという事で、鶴岡災害ボランティアネットワークの一員として受講させていただいています。昨日8時集合から午後7時まで、本日8時半から試験終了の5時半すぎまで缶詰状態。阪神淡路大震災後の3年「神戸元気村」現地での経験、日本海重油災害、中越地震 中越元気村 そして東日本大震災以降の初動、OpenJapan、そして県議として水害、広島土砂災害の現場調査などをおこなってきたこれまでを振り返り客観的に包括し、更に自分自身の課題をとらえるいい機会になっています。いつも11月1日は湯殿山の閉山式に参加しているのですが、本日は現世修行の一日であります。
ネパール大地震ー吉村誠司君の報告とOPENJAPAN総会
6月9日、午後6時半から吉村誠司君に鶴岡に来ていただき、4月25日に起きたネパール大震災への支援活動の報告会を開催した。
カトマンズの状況はテレビで何度も流れていたが、吉村君らが行ったラップラック村などはカトマンズから10時間四駆の車で行き、その後、登坂10時間かかるとのこと。写真で大歓迎されている姿を見つつ、そうした村が星の数ほどあることを聞いた。世界中からNGOが入り支援が続いているが、村すべてをカバーするには相当の構えが必要とのこと。これは長期戦で臨むべきと吉村氏。今後、テント生活している人々の暖房をどうとるか。など、大きな課題を抱えていくとのこと。ロケットストーブを地元の素材を使ってつくれないか。なども検討。会が終わってからも会に参加したSさんは小型の発電機をつくっているので何か役に立てないかなど諸々相談した。今後OPENJAPANとして支援を呼びかけ活動していくとのこと。終了後若林へ。庄内魚の刺身定食堪能。
動画は以下。
6月10日 午後2時からOPENJAPANの総会が石巻で開催された。私はスカイプビデオでの参加となった。カーシェアリング協会の活動にはめざましいものがある。行政ともパートナーシップを組み確実に新しい社会モデルをつくりあげている。復興庁とも連携をとって事業を進めている。そのほか、銀行や企業とパートナーシップを組んでの石巻、福島への支援活動も継続している。古民家を地域のカフェにするIBUKIプロジェクトは今年10月をオープンの目標に邁進するとのこと。他、昨年度は水害があった山形、白馬、の支援、またネパールの支援。また、食品の放射能測定の件、私からは福島の子供たちの保養のプロジェクトをなんとか進めたい旨の説明をした。OPENJAPANは、非営利のホールディングカンパニーのようなかたちを目指していく。1)動く2)オリジナル 3)ひな形 4)育てる 5)助ける をモットーとし、東北の真の復興と新しい文化をつくる。本日、OPENJAPANの理事の一人として承認いただいた。東北の真の復興のために、新しい社会モデルの構築をしつつ、さらに力を尽くしていきたい。
1.17
2002.1.17神戸元気村の解散の際書いたもの。踏みしめて
20021/13 神戸元気村の解散。そして次のステップへ。 |
■1月13日、震災から7年の神戸に行って来ました。当時からかかわったスタッフが50数
名集って、神戸元気村の解散を決定しました。
思えば、7年間。活動が始まって以来、毎日24時間体制で神戸の様々な問題解決のための活動をおこなってきた神戸元気村。
ボクは神戸を離れて早くも4年たつわけだけれど、神戸での毎日は、1日が何か通常の生活の1年分ぐらい濃縮されていたようにも思え、ボクの記憶や体にしっかりと刻み込まれている。まぎれもない、ボクの人生のターニングポイントが「神戸」だった。
神戸元気村は、山田和尚(バウさん)のたぐい希なる動物的センスによるマーケティング能力、そして、多くはないが、ミッションにむけてフルコミットして、すべてを投げ打ってでも働きまくるスタッフ。そして、、しかし自由にがんばれる、ボランティアのみんなから成り立っていた。
「NPOの特性、その有益性というのは、その柔軟で自由で革新的な行動力」これは
震災の二年後に神戸を視察し、僕らに語った米国FEMA(緊急対策庁)のスタッフ、ベンジャミンが言っ
ていた言葉だ。行政には絶対できない俊敏な行動、人や民間企業を惹きつけ、寄付金
を獲得する能力、それは、ある意味、企業のマーケティングよりも瞬時にそして的確
に「つなぐ」「動く」作業が要求される。
神戸元気村の特性はまさにそこにあった。ボクは、会社員だったときより、自分の
「カン」やそれまでの経験や、スキルをフルに回転し、そして自分の最大限の精神力
とクリエイティビティを発揮させ、事にあたっていた。別に高い月給をもらっていたわけではない。はじめの半年間は無休で炊き出しを食べながら活動。その後、アパートは借りることは無理だが、食べていけるだけの給料がでるようになり、最後は小さなアパートで生活できるような給料が支払われるようになっていた。会社勤めの時の半額ぐらいの給料。でもボクの生活はそれまでにないほど充実し、ボクは「生きている実感」と「生きることへの自信」をもって生活ができるようになっていた。そこには過去も未来もない、「太い今」という時間の連続形。不眠不休でもフル回転でやれる。自分がいた。テント生活の中でそれを発見したのだ。
98年、神戸を離れ、ウォーターワッチを立ち上げてから、アメリカのバークレイ
のNPOにインターンしたとき、神戸元気村と同じような団体を数多く見かけた。新し
い文化をつくる。その革新的な行動力。米国の彼らがやっていたことは、いかに、優
れた事業を産み出すかということ。会員を獲得したり助成金をゲットしたり、そのた
めに、魅力的な事業をいかに作り出すかということ。そこにフォーカスされ、努力が
注がれていたと思う。スタッフは、9時から5時まで、通常の一流企業のように精神
を集中させてフルに働いていた。
元気村は、これまでやってきた100以上のプロジェクトの一つ一つ、実に奇跡を孕
みながら、ある意味で米国のNPOに負けないぐらい、とてもクールに運営されていた
と思う。ま、時にはいろいろうまく行かない時もあったけれど、数々のアクティビス
ト達の出会いや輪をもちながら、ファンドレージングもこなし、一般の寄付金も集め、
「誰にもマネのできない活動」と、有機的なネットワークをつくりあげてきたと思う。
災害時のボランティア・コーディネート機関としての元気村は、その革新的なアイデ
アと行動力とう点で、右に出るものはなかった。「日本海重油災害」では、バウさん
が「ひしゃく」を持って油をすくいはじめなければ、あの場で何もはじまらなかった。
当時現場の社会福祉協議会や町も市も県も、とにかく行政機関にはまったくスキルがなく、誰も、何も手をつけることができなかったところで、山田や神戸の実際の経験がモノを言った。これはニュース23などで紹介されていたから、記憶している人も少なからずいるだろう。
その重油災害の時、ボクは、神戸での経験を生かすべくインターネットWEB「Save
the coast!」を立ち上げ、運営した。このときはまたもほぼ1ヶ月不眠不休。ほぼ食
事もとるのも忘れ、30分ごとに更新を続けるという日々だった。これもなかなか周
りを理解させる事がいろいろきびしかったが、インターネットマガジンや立花隆 著
「インターネットはグローバルブレイン」、毎日新聞「余録」などで評価を受け、自
分でいうのもなんだが、 インターネットでのボランティアコーディネートの先駆け
を創ることができたと自負している。
ま、あまりに革新的すぎて、理解できない人もいたけれど。7年間、24時間体制で
動き続けてきた神戸元気村。24時間というのは独居老人の緊急通報システム、ベルボッ
クス事業があったからだ。このためスタッフの誰かが元気村の事務所で仮眠をとりな
がら待機する。ボクはほぼ、公園のテントや、仮設住居とこの事務所とのどちらかに
眠る。そんな生活をほぼ3年続けたのだった。今思えば、スタッフみんな、本当によ
くやったと思う。
神戸元気村に関わったボランティアの数、推定約2万人。そして数々の企業の皆さん。ほんとにありがとうございました。そしてスタッフのみんな、ありがとう。ボクに第二の人生を与えてくれた元気村代表のバウさん、ありがとう。そして本当にご苦労様でした。そして元気村と一緒に活動してくれた神戸の市民のみなさま。メディアのみなさま。元気村の活動を支えてくださって、本当にありがとうございました。
そして
神戸よ。震災で消えていった6千名もの命よ。
ボクは、神戸で授けていただいた新しい「いのち」を燃やし続けることを改めて誓う。
「神戸」を未来にどう活かすか、一生勝負をし続けることを誓う。
まだまだボランティアが根付かないこの国へ。
NPO が本質的に理解されない官僚大国のこの国へ。
民主主義が全く確立していないこの国へ。
市民の声が届かない、銀行や企業は救っても市民を救うことができないこの国へ。
膿がでつつも政官業の癒着と天下りがはびこるのこの国へ。
13日の会議では、「元気村のアクティビストのネットワークは消えることはない。
みんなで次のステージに行こう」という事を確認しあった。
今年もまた1月17日がやってくる。あれから7年たつ。
ウオーターワッチネットワーク代表 元神戸元気村副代表 草島進一
2002.1.17 神戸元気村 代表 山田和尚が朝日新聞「天声人語」にPICK UPされた。 |
■朝日新聞《天声人語》 01月17日 2002 あのとき、たくさんの命が失われた。多くの人が、たくさんの大切なものを失った。7年前、震災で炎上する街の映像をテレビで見ながら感じたのは、自分が知っている街が廃虚に化すことへの何ともいえない喪失感、あるいは無力感だった。 しかし、東京では何事もなかったかのように電車や車が走り、人が行き交っていた。その落差に戸惑いもした。どちらが現実なのか。むしろ、こちらの何事もないかのような日常の方が偽物ではないか。そう感じさえもした。 実際、廃虚から立ち直っていく人たち、その支援をする人たちの姿を見たり聞いたりして、生きることの原点を教えられたような気がした。あの日、多くのものが失われたが、あの日から生まれ育ったものもあった。ボランティア活動といわれる多様な支援活動もそれだろう。 そのひとつ、7年間活動を続けてきた「神戸元気村」がきょう解散する。神戸に単身乗り込んで炊き出しから始めた代表の山田和尚氏は「もう一度ただの50歳のおじさんに戻り、パキスタンへ行ってアフガンの人々への救援物資を運ぶ運転手をしようと思っている」。 行政ができないことをやってきたという自負はあるだろうが、山田氏にはなお気がかりな点がある。「自立するのを助ける」。この意識が行政側にもボランティアにもあって「単に困っているだけの」被災者との摩擦を招いたことだ。お互いに自立した人間として接するべきだ、と。 山田氏は17日早朝、六甲山頂から神戸の街に頭を下げて「お礼」をし、区切りにすると語っていた。 |