持続可能な鶴岡ブログ

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カテゴリー: 中越元気村情報

庄内支庁幹部との協議会


6月7日、午後4時から
庄内支庁幹部と庄内選出県議との協議会がおこなわれた。
一連の説明の後、質疑。
僕の指摘した点は3点。

●まず、岩手県山田町へ庄内支庁の職員を現地の避難所運営などに派遣していることを評価。実際に派遣された職員の方々が被災地でしか体験できない様々な事を学んでくる。そのひとつひとつが庄内を災害に強い地域にする糧となるということ。そして、「新しい公共」を学ぶ最高の場所が被災地であるということ。そして、まさに現地のニーズを踏まえて戻ってくるとも思うので、派遣後の職員の方々が様々な体験を県政にフィードバックするようなしくみ、スキームをぜひ組んで頂き、今後の復興支援の政策に役立ててもらいたい。ということを提案。

●放射性物質の問題。水道水源の調査については、4月にはいったからと、遅かったのではないかと指摘。3月の水素爆発の際に放出されたと思われる放射性物質は、3月12日から1週間以内にほぼ大量にでている。その後、農産物についても県が調査しはじめたのは3月24日、水道水源については更に遅く4月にはいってからと資料にあった。庄内地域内でも、県民から「水道の放射性物質」については50件ほど心配の電話も寄せられていた。東京周辺でも放射性ヨウ素の値が高い水道水が発見され、都民は一時水道水を飲めず、ペットボトル購入に走ったのは、3月23日。その際、山形の水道水がどうだったのかは、はかっていないから解らないということになる。今般の5月補正では、相当数放射性物質を測定する機器の購入をおこない庄内支庁にも入る予定だ。当初の遅れについてはほとんど答弁なく、もう仕方ないとしかいえないが、反省をもって今後の充実に努めるべき、と感じた。今後の充実についてとにかく求めた。それと、このある意味水パニックの際に、地下水を水源としている水道事業体は、早々と安全宣言ができた。鶴岡の赤川扇状地をはじめとする、地下水資源についても、改めて見直し、保全と利活用を考えるべきと問題提起した。

●もう一点。今年20周年を迎える庄内空港。おめでとうございます。といいつつも、現在周辺施設などで下水道などの不具合など、メンテナンスが必要なものがあるようだということ。それと、おまつりステージに、貸し出しの規定が条例でされていないために、使いたい団体があってもほぼ使えないことになっている。この矛盾を指摘した。改善する旨回答を得た。
「せっかく作った施設なのに、使えないことになっているなんておかしいものね。」というのは、職員の皆さんだって共通認識。ちょっと細かい指摘、質問だったけれど、質疑は以上。

その後、「新茶屋」で懇親会 7000円実費也。
先輩議員、支庁幹部職員とともに諸々懇談。

本日は、その後8時からの庄内農文化交流推進協議会 総会の懇親会 に合流。
懐かしい面々と夜遅くまで懇親。







石川へ。物資の調達など


石川県 能登半島 輪島あたりが被害が大きい模様。
鶴岡市の事務所界隈で災害支援物資の調整をはじめる。
倒壊家屋も確認されているので避難所支援も頭に入れておいた方がいい。
寝具、食事等の手配が必要だ。

阪神淡路大震災から12年



明日でもうあの阪神淡路大震災から12年となる。
1995年のあの日。僕は29歳、神奈川在住の一介のサラリーマンだった。
そのころ。3年半、編集部からはいった日本リサイクル運動市民の会。で、僕は有機野菜の宅配をするらでぃっしゅぼーやの神奈川センターの物流センターの立ち上げ要員で運輸の担当者になり1年半が経過していた。その頃は、ほぼ毎週のように神楽坂の会社のBFにあるエコロジーセンターで、長良川河口堰反対運動東京支部のミーティングを繰り返していた。そこに集まるみんなと、これも毎週末のように那珂川とか、気田川とか、ちょっと遠征して長良川とかに、ファルトボート(おりたたみのカヌー)でカヌーとキャンプに行くのがほとんど唯一といっていい楽しみだった。仕事よりも本当の楽しみは仕事の外にある。会社ではそんな、どちらかというとさえない社員だった。
 
 1月17日。連休の朝だった。厚木のアパートで起きた僕はテレビ映像にはまった。がれきの山と火事。もうもうとあがる煙。「どこかの外国の町に違いない」「いやまてよ」「何!?」「神戸!?」僕はぴょんと飛び起きて、それから会社にいくのだけれど、頭は神戸の事一色。仕事に全く手がつかなかった。
 神戸にもらでぃっしゅぼーやの支店があった。それと実はその代表の高見裕一氏は、神戸に事務所を構える現職の国会議員だった。
 「神戸にいかせてください」僕はその日のうちに志願していた。
 実は、神戸には僕の大親友がいた。「あいつが埋まっているかもしれない」
いくら電話しても連絡がとれなかったので、そういう気持ちがどんどん高まっていった。

 1月19日。僕らは神奈川センターから5人の派遣団として大阪センター経由で神戸で支援活動をすることになる。20日。物資満載の2トントラックで西宮にはいる。ほとんどの木造家屋の一階部分がぺしゃんこになり、ビルが折れ曲がり。道路は崩れ、電車の線路はうねうねにひんまがっていた。サイレンの音。ヘリの音。まだもうもうと煙があがっているところもあった。ラジオでは、約二〇〇〇人とか三〇〇〇人とか犠牲者の数が発表されていた。どんどん犠牲者の数が増えてくる。はじめは会員さん宅に届けようとしていた物資だったが、どこに誰がいるのかなんてほとんどわからない。とにかく路上で暖をとっている人たちに物資を手渡していった。
 西宮駅前に実家があった親友の家も訪れてみると、全壊家屋。「全員無事。●●●●にいます」の張り紙。ほっと一安心。その日。芦屋川より向こうは危険としていわれ、その日は断念。

 一月二三日。三田市経由で電車をのりつぎ、大阪から三時間かけて新神戸に着く。「バウさんという市民運動をやっている人が御影でたきだしをはじめた。みんなで手伝おう」そんな指令。五人の派遣隊の一人として新神戸からR43号、R2号をつうじて、御影公会堂まで約四時間歩く。ビルが倒れている。線路がひしゃげている。路地に入るとがれきの山。ショールームのガラスが飛び散り見る影もない。電信柱が軒並み倒れている。至る所の道路が割れ、段差ができている。ラジオでは「医療、看護士など専門家の方以外は立ち入らないでください」などと流れていた。
ところどころで一斗缶に自分の家の柱をくべて、暖をとっている人の姿。声もかける気がしない。
黒こげになってまだくすぶっている一帯。深緑の制服とヘルメットの自衛隊が掘り起こししている現場。まだ誰か生き埋めになっているらしい。「こんなところに来て、僕らみたいなのが何の役に立つのだろう」御影というところに近づくにつれ、不安も増していた。

 都市壊滅の中を歩いたこの四時間はまだ鮮明に心に焼き付いている。立派な道路もコンクリートのビルディングも、地震で崩れた。家具や家の柱やコンクリートブロックでつぶされた人たちは亡くなった。時には家とともに焼けた。灰燼と、絶望的な空気の中、どんどんその空気に飲まれるようにして歩く。サイレンの音。報道ヘリの音。
 御影公会堂。ひげのバウさんに会う。とにかく握手。「なんとかしましょう」「なんでもやりますので言ってください」「今、みそ煮込みうどんつくってるねん」「は?」
と見るとでっかい寸胴とプロパンガスボンベと、五徳。一千人分ぐらいの食材。「今はあったかいものが大事や、一緒にやってくれるか」「はい、なんでも」
 それまで作ったこともないようなみそ煮込みうどんを大鍋でつくる。無我夢中で、材料を切り、大鍋にいれていく。ようやくなんとかできた。
 
 御影公会堂には当時約二千人もの方々が避難していた。「できたよー。」バウさん。ずーっと列ができる。数千人の人たち。おじいちゃんもおばあちゃんも、子供達も。血のりが顔についている人もいた。包帯の人も。みんなずっと並んで次々と僕らが今つくったみそ煮込みうどんを食べ始めた。「大丈夫かな 」僕らは正直不安だった。もちろん味に自信があるわけじゃない。食べ始めたおじいちゃんやおばあさん。
「おいしいなあ」「あったかいわ」「ありがとう」「ああ、やっとほっとした」
中には涙をためて、そういうおばあさんがいた。
 肌寒い空の下、崩れたコンクリートのブロックに座り、お椀をかかえたおじいさんが、うつむいて、涙を流し、汁をすすりながら、ありがとう、ありがとうと何度もお礼をされた。

僕は、その瞬間の事を一生忘れないだろう。そして、その瞬間、何か僕の中でこれまでの人生では味わったことのない力に包まれていた。別次元のエネルギーのような感じで満たされていたのだ。

亡くなった肉親。倒壊した自分の家。「すぐ近くの小学校に家族の遺体があるんだよ」という人など深刻な状況の中、とにかくよそもののど素人がつくった味噌煮込みうどんは、なんと涙で迎えられた。


そして、その時、なんとこの鍋づくりに被災者でありながら、当初から関わってくれた人がいた。原さんというその界隈の世話役の方とそのご家族だった。ジャージ姿の原さんは、兄を震災で失ったといっていた。「でもいつまでの泣いていられへん。自分らが何かせんと」と言って「君らはそうか、東京の方から来たんか、ありがとうな」といって一心に一緒に鍋をつくった。原さんが声をかけてその親戚の方を含め七名。それから一週間以上もの鍋づくりをやり続けた。原さんとは初日からうち解けていろいろ話をした。

僕ら五名の派遣団は、その日は御影公会堂の中で被災者の方が使っていなかったホールの中の観客席で寝袋にくるまって寝た。そして朝起きると、鍋

震災1年半年の中越。


中越のその2編。

聾唖の芸術家との出会い。


今日近所のwさんというかたからピアノ移動のニーズがあり現地へ。行ってみると洋画で肖像画を描く画家の方。いろいろうかがってみると生まれた時から耳が聞こえない方と聞いた。そして奥様も耳が聞こえにくい方だった。大英博物館に永久保存されている日本を代表する洋画家であり肖像画家。ピアノ移動を5人ですませてから、じっくりとお二人のお話を聞く機会にあずかった。被災して、避難所で、また、自衛隊テントで耳が聞こえないために大変なご苦労をなさった経験。今も、電話ができないがためにニーズがあってもなかなかたのみにくいと聞いた。こうした災害弱者といわれる方へのケアは、行政サービスではまだまだ心許ないということ。ボランティアが必要なポケットをまた発見した。ファクスできちんとニーズを受けれるようにしようとみんなで確認す。

和田さんの関連記事
http://www.niigata-nippo.co.jp/rensai/n22/n22_h30_k30.html
7日は専従スタッフ全員がそろい今後のためのミーティングをゴチャドーロでおこなう。元気村は次のステージへ

仮設住宅支援


今回、僕の中越入りの最重要課題が仮設支援の体制をどうするかだ。神戸でも7年間にわたって、重要視した活動が仮設住宅支援だった。緊急通信装置とパソコンのデータベースを結びつけ、システムを開発。ベルボックスと名付けた。じっくりと長期的に親戚づきあいのような関係でかかわっていく方法。それから、どんどん関心の薄れていく被災地の仮設住宅と外とをむすぶプロジェクト。その2本を柱として活動が続いた。

今日は、仮設支援スタッフ3名と行政機関をまわって、現状の課題を伝えるとともに、行政サービスとしてどんな支援メニューがあるのかを尋ねて回った。特に、今回の事例のように50代の男性で実に問題を抱えているケースがある。このケースについて、まずは、行政的にはどんな支援があるのか。

障害者福祉、高齢者福祉、健康福祉の関係の健康センターをそれぞれまわった。
行政的なサービスでは、50代男性へのケアというものについては、なかなか支援体制というものがないことがわかった。精神障害についての公的なメニューは、訪問サービスのみで、金銭的な補助メニューはない。実際、3月22日の孤独死第一号は50代。その現場に立ち会ったボランティアスタッフとともに、晩にそのお兄さんと会うことができた。静岡から毎月通ってくれているkさんが訪問したときに撮った写真の中のその人は一件むづかしそうにも見えたが、完全にそのkさんに心許している感じだった。行政メニューではできない心のつながりがボランティアにはできたのかもしれない。
 ここに共存することの意義はある。


被災地のニュース新潟日報より
FM9局がラジオ活用を陳情

県内のFMコミュニティー放送局9局は6日、県庁に泉田裕彦知事を訪ね、災害時などの情報通信にラジオを積極的に活用することを要望。中越地震や7・13水害を踏まえ県が見直し作業を進める「県地域防災計画」に組み入れるよう求めた。
 陳情書では昨年の地震後、各自治体が設置に力を入れている防災無線だけでは不十分として「ラジオは簡便かつ安価で災害時に欠かせない有力手段」と強調。緊急時にラジオ放送が迅速に利用されるよう、イベント紹介など県広報の際にFM放送を普段から活用することを訴えている。

→FM放送局は、合併を控えている新鶴岡で考えなければならない重要政策の一つではないかと思っています。災害時、細かな支援メニューを発信続けたFM局が大変効果を上げました。また、議会情報や細かな地域密着情報を流すことができるため、「民主化」に貢献するものと考えてるからです。




十二平と塩谷の今。


十二平と塩谷地区に視察に行く。
十二平は12世帯の中山間地集落。川沿いに通じる道にそって集落はある。地震で倒壊した上に豪雪で潰された家屋も多く、雪が解けてそのひどい状況がじわじわと明らかになっていく途中だった。また、新緑の木々と残雪の若干見られるが、それよりも山崩れ、地滑りで山肌の赤い土がむき出しになっている状況が目にまず飛び込んでくる。川の中にはまだ水没した軽トラックがそのままになっていた。
ここは集団移転をしなければいけない集落と聞いた。それだとしても家の中の片づけなどをどうするか。ぺしゃんこになった家屋の片づけはどうするのか。課題は大きい。


その後、車を走らせて木沢ルートから塩谷地区へ。冬の間 屋根に上り、雪堀をしていた民家のほとんどとのところで地面がようやくあらわれていた。「え、こんなに高さのある建物だったの?」と意外におもうぐらい、雪堀の時期にいかに雪が多かったのかを改めて感じたのだった。塩谷地区。地震で4件完全倒壊。その上に雪で民家が12件以上は倒壊してしまっている。今後の解体から住宅再建の問題。集落としての生き残りの問題。など、。いかに復興をサポートしていけるかをみんなで考えなくてはならない。と改めて思った。
後は元気村 本部で仮設のケア隊についてなどの打ち合わせおこなう。3月22日に発生した孤独死の問題から、特に仮設訪問ケアの役割の重要性が高まっている。元気村では今、2人の専従スタッフを仮設住宅ケアにあたらせている。連日訪問をし、時には2時間も話し込む。送迎もする。そんな中で問題がじわじわと見えてくる。神戸でやっていた「ベルボックス」システムを運用すべきかどうかも検討中。今こそ知恵のだしどころだと思っている。

中越。塩谷地区の方のミーティング


GWの中越。元気村では専従スタッフ含め20名のボランティアが活動している。GWを活用してずーっといて支援活動をしている人もいる。3月22日に孤独死第一号の第一発見者になったKさんは、静岡の高齢者福祉施設で仕事をしている人だ。この連休29日から10日まで元気村に寝泊まりし、孤独死防止のための仮設住宅の訪問活動を続けている。10月当初にボランティアで中越にやってきて、避難所の体育館フルート今の仕事は、解体作業のお手伝い、家の片づけ、田んぼの修復のお手伝い、などだ。晩の7時30分から、塩谷地区の人たちの今後の解体関連の体制についての住民会議に参加をし、情報交換。特に14,15日、21、22日に100人体制でおこなうボランティア支援の作業の打ち合わせをおこなった。
 その後、懇親会がおこなわれ、11時ぐらいまで盛り上がったのだけれど、やはり、住宅復興支援制度のややこしさは住民を苦しめている。この会には、鳥取県のボランティアネットの方や静岡県のボランティアコーディネーター、が参加。鳥取県の300万円ほとんど無条件に支援する制度のようなもののほうが実際に役に立つだろうなあという声は多い。今回の支援制度、まず、国の支援制度は、所得制限の500万円以下という条件からして、とても被災地を支援しようとしているのかどうかさえ疑わしい制度と皆さん口々に言う。また県の制度も住宅の解体費用にいくら。そして生活関連物資に70万円などと、細かく規定されていて、なかなか把握するのがむづかしいとの事。
 
 個人個人の事情は様々多様性に富んでいるわけなので、使用用途について、柔軟に自由裁量という風になっていればいいのに。という声を多く聞いた。

こうした制度はたとえば他の国ではどうなっているのだろう?


中越震災から半年


中越震災から半年。僕は昨日から中越元気村本部にいる。これから塩谷地区のみなさんの会合で諸々現状を聞く予定だ。民間の災害ボランティアとして中越元気村はこの半年間活動してきた。この1月から3ヶ月間もの間は、ほとんど、仮設や山間地のスノーバスターズが大活躍した。結局250件もの雪堀のニーズに応えてきたことになる。

 中越は、今、ようやく雪も解け、復興にむけた作業が本格化する。元気村には、昨日も今日も、住民の方から家の片づけや物資移動などのニーズ電話がある。3月22日に中越初の孤独死が発生した仮設住宅支援、中山間地支援など、課題は山積みだ。
 単に災害救援のみだけではなく、動いたら変わる。つながる。そして新しいものを生み出す。そうしたボランティアの文化をもう一歩進めたい。そんな思いでつづけてきた活動だが、専従スタッフ8名、この半年間いろいろあったが、よく活動してくれた。はじめは素人かもしれないけれど、毎日経験を積んだ彼らは確実に何かをつかんだはずだ。今朝の朝日新聞には、全国版に、今仮設住宅支援をおこない4月に専従スタッフになったばかりの小川君がとりあげられている。彼は地元の被災者でもある。今、仮設住宅を一軒一軒訪問して、いろんなニーズに応えようと懸命だ。
 先日、市長さんや議員団の方々に活動を報告する機会をえたが、行政サイドは「自立、自立」といった対応を感じる。それは確かに大事なことなのだけれど、被災者にとって、やはり、もっともっとキャパシティを深くもって、自立することを支援する期間としくみが今、必要なのではないかと思うのだ。そこにボランティアやNPOの活動する場があるのではないかと思うのだ。
 ホームレス支援のために古いホテルを買い取って居場所を提供する。そんなサービスをおこなうnpoが米国にはある。そしてそれを周辺の企業が支えるしくみがある。また、行政にとってその団体が都合がいい悪いにかかわらず、寄付金について税金控除のしくみがある。
 震災から半年。阪神淡路大震災から10年、僕らは何を次に伝えることができるだろう。災害時のボランティアのあり方、NPOやボランティアの文化、行政との協働のあり方をもう一度問い直したい。