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おのずから然りなり 「無事」な川とは。 内山節 先生


遊佐で「川のめぐみと共に生きる」環鳥海山のフォーラムといった興味深げなシンポジウムがあり、哲学者の内山 節 先生がいらっしゃるということで足を運んだ。

国土交通省 県河川などが勢ぞろいした顔ぶれの中で、内山先生は、はっきりとこれまでのダムや堰にたよりきった川の河川改修のやり方を否定し、大熊先生と同じように新たな「技術の自治」の視点をもって、川との生き方を模索しなくてはいけないという、新たな指針をいただいた。とても貴重な、山形県にとっては歴史的な講演だったのではないか。 以下、聞きながらパソコンで打った速記メモです。意味不明のところもあるとは思いますが、ご勘弁。

私が生まれたのは東京都世田谷区です。世田谷でも清水が至る所で流れていた。5歳ぐらいから魚を釣っていた。
多摩川 99%は下水の処理水からなる川
多摩川の魚
魚釣り 村の生活 150坪の畑   ふろは薪ではいっている。

上野村   人間の営みと自然との調和点のような完成された景色

利根川 江戸時代 大変な自然破壊
利根川の洪水対策 流れそのものを変える
にもかかわらず、自然が豊かな川
大改修しながらも。 

昔から河川改修はおこなわれてきた。
そのころは、川は川らしかった。
戦後の工事っでは川は川らしくなくなった。

川釣りしていると 日本の川は燦々たる状況。30年前から比べると、魚のつれ方は10分の1、今は9割方、放流魚。
最近はうぐいまで放流。まったくなさけない。

1600人の山 それくらい魚が減っている。

この原因ははっきりしていて、、、 最近は稚魚をめっきり見なくなった。
釣りをしていても、 今はてんからしかしないんで比較的大きいのしか釣らないが、えさ釣りだと小さいのもかかる
10センチぐらいとか、小さい魚はいない。
川が、再生産能力を失っている。
川に産卵場所がない。 

なぜかといえば、川底が埋まっているから。 いっぺん川の水が流れ込んで、石の下からあがっていく。そうした川そこが必要。でも、今はべたっと、川底が埋まってしまっている。 
この原因は、川にダム、堰堤がありすぎるということ。

● 林道の工事によって川がうまっていく。
田んぼをもっていない。

●川とはなんだろうか。ということを考え直さなくてはいけない。

釣り 農業用水の集水 水量の多い川 物資の運搬手段
川舟があって、物資を運んでいる。
輸送にも使うし、川岸の植物も採取する。鴨猟もする。
大根を洗う、農業用水を使う。多様な利用があった。

その多様な利用から、現在は限られた利用になっている。
農業用水 集水堰 ダムなどに変わった。

水田  昔の水田 稲作だけではない。 水田漁業。 どじょう たにしをとる。水田 漁場として機能していた。

どじょうがはいっていた。
 
田んぼの中の水辺の世界 はかなりの漁獲高をもっていた。
食文化の中では稲にやってくる いなご。 タガメ、ゲンゴロウを食料として田んぼの世界からとっていた。

今の水田から、その漁業的な機能が消えてしまった。
牛馬にはあぜの草の方がよかった。
新潟平野では、あぜ道には桐の木を植える。 あぜ道林業 

かつての農村の世界  主たる目的は、米、水産業 桐をうえて林業 上手に利用体系をつくってきた。

川 川は多目的に利用する。 
千曲川 信濃川の源流域 江戸時代 長野県 上田 上田市で、サケを5万匹とっていた。 松本市でも5万匹。 上田、松本で10万匹。
今は一匹もあがってこない。 JRのダムによってあがることができない。

川が川らしかったときの生産力はべらぼうなものだったのではないか。
今では0になった。
工業生産力 自然が本来もっていた生産力とはどれくらいのものなのか。、

当時の日本。千葉のところで大熊さん 当時の東京湾の生産力で餓死することがなかった。あさりの話。国やぶれて山河ありということが、都市の近郊でもあったんだな。

今はどうか、当時はできたことが、今はできない。今は困窮した人を救える豊かさはないのではないか。

昔は、山にはいれば、1年ぐらい生きれる人がいた。

「川のめぐみと共に生きる」
川にはいればヤマメが無尽蔵ではないし、守りにはいっても

日本社会は発展をしたけれど、自然の豊かさを激しくそこなってしまった。

川とは何か。源流からはじまって、海まで流れていく。
源流の沢といわなの物語 下流には、農村と川の物語
流れとともに、川の物語を紡いでいく。 その中で多様な川

明治以降 川の物語が消えていく 歴史だった。

川の問題になると 水の問題だけになってしまう。
これだけの過密人口を支えるにはやらざるをえない

川の流れとともにつくられてきた人の営みの物語の世界をどこかに置いてきてしまった。
大変な禍根を残しているという気がします。

川は流域の人たちのものだった。 利根川という川自体には利根川の流域の人たちの技術がつかわれてきた。 農業技術だとか、農民の知恵が使われて、その積み上げの上に江戸幕府が大金をつんでおこなっている。
工事をになった技術は流域の人たちの技術。

和歌山県の農家の人たちには 専門の土木技術をもった村があった。

軸になっていたのは、地域の人たちの発想。 それこそが河川を改修する原動力だった。
明治になってから、国の指導下により河川改修されていった。

川と地域の人との距離が遠くなっていく歴史。
これが、日本の川を変えてしまった基礎になってしまった。

現象としては、ここにダム

川は、地域の人のものだ。流域の人のものだ。ということ。
自分たちの発想で、逆に公の力を使うという発想でないと、本当に川を知らない人の管理になってしまう。

川というのは一本一本違う。 雪解けがはいる川 3日間で2000mを越える川もある。一本一本性格の違う川を  川は絶対によくならない。

大熊孝先生の書物に、  小学校の校歌の飲用 川はときどきあふれてきて浸水させるが、洪水をおこして地域で暮らすわたしたちを鍛えてくれる。
もともとの地域の人たちは、洪水への気持ちというものをもっていたのでしょうl。
そういう意味合いを昔の人はもっていたのでしょう。

● 最近、川 というと 自然、そして、保護という言葉をよく使う。

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