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住民投票運動の恩師 姫野さんへ。


川仲間のみんなが今週日曜日の行方不明の翌日からずっと捜索を続けていた姫野雅義さんが昨日遺体で発見された。

以下、毎日新聞より
動堰反対リーダー死亡:「大黒柱が…」「信念継ぐ」 仲間ら、悲報に衝撃 /徳島
 ◇懸命の捜索実らず

 吉野川・第十堰(ぜき)の可動堰化計画を巡る市民運動で長年、リーダー格として活動し、3日に釣りに行ったまま行方不明となっていた姫野雅義さん(63)=石井町藍畑=が7日、海陽町の海部川で遺体で発見され、関係者に大きな衝撃が走った。住民運動の仲間や親交のあった人たちからは、運動をリードした人柄の良さをしのんだり、早過ぎる死を惜しむ声が相次いだ。【深尾昭寛、井上卓也、山本健太】

 捜索は4日以降、警察や消防のほか、姫野さんが設立にかかわった「川の学校」のメンバーらも加わって続けられ、7日も早朝から開始されていた。

 釣りが趣味だった姫野さんは、運動にかかわったこの20年弱、釣りをしておらず、最近になって再開したばかり。不明になる前日の2日夜も、仲間に「昨日はアユ釣りに」と笑顔で話したという。

 今年5月に解散したNPO「吉野川みんなの会」の代表理事で、同町での捜索活動に加わった豊岡和美さん(48)は「再開した矢先にこんなことになるなんて……」と肩を落とした。同じく捜索に加わった徳島市北田宮2、会社員、石川富代さん(63)は悲しみの一方、「海まで行っているかもしれないと話していたので、ほっとした」とも話した。

 悲報は、各方面に衝撃を与えた。木頭村(現那賀町)で同じように国のダム建設の計画に反対した元村長の藤田恵さん(71)は「全国の住民運動の大黒柱が倒れた気がする。まれな人をなくした」と悔しがった。

 長く行動を共にし、活動をきっかけに99年に徳島市議になった村上稔さん(44)は「すべてがまだ信じられない。姫野さんの信念だった川に住民の声を反映させるという思いを引き継ぎたい」。住民投票条例の直接請求で姫野さんと一緒に請求代表者を務めたプランナーの住友達也さん(53)は「意志の強い人だった。やめようとか違う方向を考えようとした時も、引っ張ってくれた」と惜しんだ。

 姫野さんは9、10両日に滋賀県栗東市などで開催される「水郷水都全国会議」の大会にも参加予定だった。大会の実行委員の小坂育子さん(62)=大津市=は「青天のへきれき。川の神さまが連れて行ったのでしょうか……」と悲しんだ。
 ◇吉野川愛し、運動の先頭に 住民投票実現に尽力

 亡くなった姫野さんは石井町出身。約260年前に吉野川に造られた人工の堰・第十堰の近くで育った。90年代初め、可動堰が造られる計画を知り、「これ以上、川をいじられるのは耐えられない」と、仲間と計画を疑問視する勉強会を始めた。穏やかな人柄ながら、川に対する人一倍強い思い入れで、当時、計画に関する情報公開をしぶった旧建設省の追及の先頭に立った。

 98年6月に同省の審議委員会(第三者委)が第十堰の可動堰化にゴーサインを出すと、反発する市民らとともに「川をどうするかは川にかかわる住民が決めるべきだ」と計画の賛否を徳島市民に問う住民投票の実現を模索。同年9月に発足した「第十堰住民投票の会」の代表世話人に就き、投票条例を直接請求するのに必要な10万人分の署名を集めた。

 国の公共事業の是非を問う全国初の住民投票は00年1月23日に実施され、計画反対票が9割超を占めた投票結果は、その後の計画白紙化に大きく影響。運動の中心人物としてメディアに取り上げられることも多かった。

 住民投票後も、可動堰によらない第十堰保存を目指すNPO「吉野川みんなの会」の代表理事などとして活動。04年4月の徳島市長選に立候補した(結果は落選)。今年3月に、前原誠司国交相(当時)が可動堰の中止を明言して以後、川の環境や文化の保護などを支援するための活動に軸足を移そうとしていた。【井上直樹】

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姫野さんは、吉野川の可動堰を住民投票運動でストップさせた方だ。2000年1月23日におこなわれた吉野川の住民投票の際 には数日だったが、僕自身、現場にはいり、「投票に行こう 」ボードをもってつじ立ちをしたり、一軒一軒住民をまわり、投票行動を促したりなど、微力ながら参画させていただいた。姫野さんは連日街宣カーで演説をしながら、毎日事務所にファックスを送り、みんなを励ましていた。多くの人が姫野さんを慕って事務所に集まり、フルコミットメントしていた。まさにその運動は、可動堰に住民が投票でNOをつきつけることとなり、この国を政治の根本を揺り動かした。
  姫野さんに初めてお会いしたのは長良川河口堰での集会だっただろうか。吉野川の運動は、情報の徹底的な公開と住民投票が特徴だった。まずは住民の多くに考えてもらうこと、そして「大事な事はみんなで決める」 ということを実践すること。そうすることで、官僚の手から市民の手に川をとりもどす。そうした信念が貫かれていた。「川の問題は、まず、情報が不透明でまず住民に本当の事が知らされていないこと。それが一番の問題だ。まずは徹底的に情報を開示させて、みんなでそれを考えるしくみをつくること。役所まかせでなく、住民投票で自分が判断しなければならないと感じてはじめて住民が当事者意識をもって物事をきちんと考え始める。署名ではなく住民投票によってはじめて流域住民の意思が確認できる。「大事なことはみんなで決めよう」という運動が、結果的に川を救う事になる」と姫野さんは力説されていた。

 僕はこの吉野川の住民投票の活動に参加をし、鶴岡の水の問題こそ、この吉野川の問題同様、市民がその実際をよく知り、今後の行方をみんなで判断することがまさに必要だと考え、まさに、この吉野川の住民投票運動の詳細を大いに参考にして、鶴岡の広域水道の受水の是非を問う住民投票運動の骨格を組み立てていった。だから姫野さんは、鶴岡の住民投票運動の恩師といっていい。全国集会などでお会いする度にいろんな事を教えて頂いた。
  とにかく情報を開き、住民が参加できる仕組みをつくることの重要性を説いていた。そしてそれを河川行政にもとめるのと同様、運動自体も信念を貫きつつもみんなの多様なアイデアを大事にしながら、進められていた。あるとき訪れた際には、新しい集いの場ができ、そこで鰹のたたきを囲んでわいわいやりながら、川の事を話していたが、 どんどん新しい仲間達が増え、常に進化し広がりをみせていく活動に、いつも「凄いなー」と思ったものだ。
   住民投票運動により吉野川可動堰建設計画は白紙となり今年にはいって前原大臣の下で中止が決定してまもなく、こんな訃報を聞くことになるとは。まだまだ姫野さんには教えて頂きたいことがたくさんあったのに、非常に残念だ。
  親友の村上市議とともに、姫野さんの遺志を引きつぎ、日本の河に本当に住民の声を反映させ、これ以上の川の破壊を止める。一握りの人たちのためにしかならなかった公共事業を、本当に住民の為の持続可能な社会をつくるための事業に転換する。それを貫いていきたいと思う。
  
   姫野さんは、吉野川の住民投票運動を通じ、結果、吉野川を河口堰(ダム)から守り、日本の川の民主主義を、いや、日本の民主主義を大きく進化させた市民活動家。その偉業とこれまでのご指導に深く感謝するとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます。
   姫野さん、天国から僕らのこれからの運動を見守っていて下さい。