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黒田さん  阪神淡路大震災から15年。



阪神淡路大震災から15年。今日のNHKの視点論点では、障がい者、高齢者ネットワークの黒田さんが発表されていた。当時、避難所で、まず最初に元気な方々が体育館の真ん中を陣取ってしまい、高齢者や障害者の方々が入り口近くなどで寒さに凍える。なんてことがあった。災害の時にいかに弱者の視点にたって、しくみが構築できるか。黒田さんたちが、孤独死の防止として、ふれあいテントをつくって、交流の場をつくった。そのテントを訪れたときの事を思い出す。僕らは、緊急通報の装置を一人暮らしのお年寄りに手渡して、寂しいときやお話をしたいとき、もちろん緊急の時、押してもらい、それにボランティアが二四時間体制で対応する、ベルボックス事業を展開していた。地域のコミュニティのつながりがあれば、お年寄りたちは、孤独死することはなかった。
  これは、あの災害で学んだ、大きなことだ。それを教訓に、中越ではコミュニティを大事にして隣近所できるだけ離ればなれにならないように仮設住宅をつくった。黒田さんの「ふれあいテント」に学び、神戸でも次々とふれあいセンターとして集会所が設けられ、今や、仮設住宅をつくるときには、そうした集会所をつくることは常識になっている。
   僕は、阪神では、被災地の中と外との情報格差に悩んだ。何かが必要と思ってマスコミに訴えて報道してもらう。それを観た人たちが食料、衣類と送ってくださる。被災地のニーズはどんどん素早く変わるので、それらが送られてきたときには、ニーズは次に変わっているということが起きていた。
   当時 僕はではじめのインターネットのノウハウを大阪大学の学習会まで足を運んで学びにいった。そして、97年の重油災害では、インターネットを活用して、当初は二〇分ごとに刻々と変化する現場のニーズを伝えていった。僕らはひとつひとつ現場で学び、学んだことを次の現場で実践してきた。
  重油災害ではじめて、社会福祉協議会、JC、NPOの連携ができ、協働のボランティアセンターが立ち上がった。その後、新潟水害、中越地震、能登沖地震、中越沖地震、など、次々とボランティアの現場では センターが立ち上がり運営がおこなわれてきた。僕ら、「元気村」の活動としては、中越では避難所でのプライバシー対策、それから車中泊で起きてしまったエコノミークラス症候群による犠牲者をいかに防ぐかということを目標に、「テントプロジェクト」を立ち上げ、七〇〇張りのテントを被災者の方々に提供した。
   中越沖地震では、真夏の避難所でいかに快適に過ごしていたくかを考え、キャンプ用ベッドを提供するプロジェクトをメーカーさんとともにおこなった。体育館の床 にぺったりと布団をしくよりも、ずっと快適だといことを実験しつつ、実際に喜んで頂いた。 中越では、ボランティア本部のすぐ近くにお住まいで被災当時大変苦労をされたという全盲の方とじっくりお話をした機会を得た。改めて 謙虚に、災害時に最も弱い人たちの事を考えて活動せねばならないと思ったものだ。

僕の今の活動のまちがいなく原点となっている阪神淡路大震災から15年。「神戸」が今、本当に活かせているか、また、改めて問われる。