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「手入れ」養老先生の講演から。


養老先生の鶴岡での講演会。
中央公民館のホールは満員だった。相当数にお断りの対応をされたとかで、文化会館でやれば良かったのに。と確かに思った。
初っぱな。鶴岡、はじめてきたけれど、この50年ぐらいの間に建てた建物を全部とっぱらったら相当美しいでしょうね。と一言。
米国中心の自由主義経済。自由、自由といって、実は原油価格は一定。イラク戦争も、アフガンの戦争も。全部石油利権のためなんだというところからお話がはじまった。

 面白かったのは、「日本人みんな、官僚顔しているよ」ということ。

仕事も自分の顔も、子育ても、自然に対して「手入れ」をし続けて田んぼや里山をつくってきた、日本人の文化を忘れてきているのではないか。ということ。
「手入れ」が大事なのだということ。

自戒を含め、全く同感だ。

そういえば、鶴岡の水が変わって「まずくて仕方ない」のに、平気を装っているかのようにやっている行政姿勢なんかを考えると、まさに、なんというかな。今日、養老さんが言っていた事がよーくわかるんじゃないかと思う。

「手入れ」とは、まず、そのものを受け入れ、あーでもない、こーでもないと、その地にあった事を考えながら処し続けるということなのだ。動きながら考える。考えながら、動く。そうやっていくと、互いの成長もあるし、本質的な、合理的な問題解決につながっていく。水辺の事を考えてもそれは言える事だ。

受け止め、脅威とバランスをとっていくことなのだ。
過剰な整備にしてしまえばいいということではない。
膨大な金がいるし、全く自然が失われるということになるからだ。

地下水政策だって、バランスなのだ。それを放棄して、ダムで過剰な水を受け入れて、本来の水の文化を失うということは、都市戦略として、完璧な失策ととらえていいだろう。

養老さんの、解剖実習の話を聞いてるうち、僕も動物解剖で豚、犬の解剖の実習をしたときの事を思い出した。犬の場合は、実際に生きている犬を、安楽死させるところから実習ははじまり、1日がかりで、チーム単位で次々とばらばらにした。

確かに、そこにあるモノだけが真実だった。図鑑や辞典では、こう書いてあるが、そこにそう書くのに、どういう見方をして、どのように線を書いて、どういう風にデフォルメするけどあまりそう見せずに、どういう色をつけて書くのか。
虫がいたり、病気があれば色が変わっていたりする。みんな汗だくで真剣にメスを動かして、ああ、これが心臓か。筋肉はこうなっているのか。と見てスケッチした。

当時、ちょうど、バイトしていた喫茶店に養老先生の初期執筆の本「からだの見方」などがあって、実習とシンクロしてちらちらと読んでいたことがある。もう本があるのに、なぜ、わざわざ、実習しなければならないのか。なぜ、現場にいかなければならないのか。仕事とは何か。無意識と意識。実態と虚像。真実と嘘。でたらめと本物。
 「理科系ですから、はっきりしているんです。精神論じゃないんです。」と言う語り口調で現代社会を斬っていく。今日拝見させていただいたその姿勢はその本にむけた思いと同様のご様子だった。

うむ。また世の中の見方の切り口をご示唆いただいた。

ご関係の皆さん。おつかれさまでした。