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カテゴリー: 「知憲」憲法を知る。

憲法施行70年の憲法記念日の日に


憲法施行70年の憲法記念日の日に

介護職の仕事帰りではありましたが、憲法記念日街頭演説をおこないました。共謀罪NOのプラカードをもちつつ。

憲法施行70年。

私たちはこの憲法によって支えられ70年、少なくとも私たちの国はこの間、戦争を引き起こすことはなかった。これは事実。

基本的な人権の保障、恒久の平和を念願。国民が主権者であることを定めた日本国憲法。

現日本国f憲法は、二度と戦争を引き起こさせないことと、国民の自由、人権を遵守ことを守るために国家権力を縛る立憲主義に基づく憲法だ。

5.3憲法記念日、安倍総理は「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と、9条を挙げて「1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込むという考え方は国民的な議論に値する」などとビデオメッセージを日本会議が主導する美しい日本の憲法をつくる国民の会などの改憲集会で伝えた。

これに対してだが、先ずは総理大臣が改憲派の集会でこうした発言をすること自体が「憲法99条の憲法遵守義務違反」として違憲そのものだという見解がでている。私自身もそれに賛同する。「オリンピックの年に憲法改正」とそもそも全く関係のないものを結びつけてそれらしく唱える事自体が全くおかしなことだと思う。


 又、そもそもこうした言動自体が、憲法は国民が権力者を縛るものだ。とする立憲主義に反しているという見解に賛同する。改憲スケジュールを権力者側から提示すること自体が先ずはおかしい。そして、憲法9条2項について、自衛隊を明文で書き込むことによって自衛隊を正当化し、軍拡予算についての歯止めをとりはらう目的があるのではないかと憲法学者からの指摘はそのとおりだと思う。

また、高等教育の無償化を唱えているが、これは先ず法律でやればいい話で、いきなり改憲でおこなう必要性はどこにあるのかと思う。憲法国民投票には850億円かかるそうだ。ならばこの予算をまずは無償化の予算として法改正によってはじめる方が手っ取り早い。

今、政権を担う安倍政権は、次々と憲法違反行為をおこなっている。

集団的自衛権行使容認の閣議決定は、明らかな憲法違反。そして戦争法。護衛艦いずもが、米国の軍艦防護についた。これも憲法違反ではないか。

国会で教育勅語を容認するような発言も、国会でそれが排除、失効されたときの事を全く踏まえていない、違憲行為ではないか。

​今、審議されている共謀罪は、政府に批判的な集団や個人を不当に取り締まるためにつくるものではないか。と次第に明らかになってきた。これも内心の自由に反するものだ。

格差拡大、森友学園問題のような政治の私物化。軍事研究予算の拡大、辺野古新基地の強行、、、。

安倍政権下では、現憲法をないがしろにする言動が次々とおこなわれている事を感じる。

 

憲法施行から70年。300万人もの犠牲を強いられた戦後、自由で平和な社会、を築き上げるために定められ、公権力による不当な人権侵害から、私たち一人一人の自由を守り続けてきたこの憲法価値を改めてかみしめ、この憲法理念にふさわしい政治を担っていこうと思う。これは私の掲げ続けてきた持続可能な社会づくりの基盤だと考える。

 

5.3の憲法記念日、昨年はむのたけじさんがおられた憲法集会。2017では落合惠子さんが訴え結びにこう伝えていた

戦争が終わって良かった。戦争は二度ともういやだ。この憲法が大事だ。と信じていた祖父母や父母の声をしっかりと受け継いでいきましょう。

我々にとっての安全保障は、テロの標的になるかもしれない原発をなくすことです。そして米軍基地をなくすこと、そして主権在民、基本的な人権、平和主義を更に育てることです。と発言し、大きな拍手が沸き起こっていた。

その通りだと思う。

 

 

 

2017年憲法集会 

憲法特集

 

 

 

 

 

 


11月3日。日本国憲法発布70年の日に。


「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」『復刻新装版 憲法と君たち』=佐藤功・著

報道ステーションでもとりあげられていた。読むべし。


今日は仕事の後、「高江ー森が泣いている」という映画を観た。ヤンバルクイナや貴重な野生動物が生息する楽園のような沖縄の自然や住民の暮らしを奪い、軍事演習場、オスプレイが飛来するヘリパッドの工事が強行されている。民意を無視し、住民の非暴力の抗議行動に対して、機動隊で制圧して米国のために工事を強行するその暴力に言葉を失った。

人権や自由を奪う憲法違反そのものではないか。国民を欺き、権力をふりかざし、堂々と憲法違反を犯し、その上で壊憲を成し遂げようとする。これぞアベ政治である。憲法制定70年。来週から憲法審査会が再びはじまるそうだ。


もはや「押しつけ憲法論」は論外。先の戦争の戦犯たちが創りだした虚構であり、全く事実に反している。

「憲法は国民の自由や人権を守るために、権力者達を縛る命令書」たる立憲主義を逸脱する改憲も論外。政府によって都合よく、国民に憲法尊重義務を課し、国民の義務を10項目も増やすような自民党の憲法草案はまさに「改憲ならず壊憲」であり、言語道断だ。


70年前に、二度と戦争を引き起こさないように、狂った社会を日本にもたらさないように、そして二度と個人の自由や人権を奪う事のないように、当時の日本人が情熱と希望とをもって憲法をつくった。そして70年前の今日、多くの日本国民が憲法制定を喜び祝福した。「これで、国民を欺き、多くの国民を徴兵し、そしてその兵士の多くを餓死させ、特攻させ、更に広島長崎への原爆や日本各地への空襲で310万人もの犠牲を強いた戦争の社会から完全に解放され、これからは監視や弾圧がなく、自由に書物を読み、個人の幸せの追求のために暮らし、発言や運動を行うことができる」と。


そうした先輩方を裏切らないようにしなければ。昨年強行採決された「戦争法」は無論、米軍の為に強行される高江ヘリパッドや辺野古の基地も、米国をはじめとする多国籍企業に国家や自治体の主権を奪われかねないTPPも、憲法違反そのものではないか。


憲法に反した、こうした間違った政治を正したい。「憲法が私たちを守る。私達が憲法を守る。」

社会的にも、環境的にも持続可能な社会にするために。


天皇陛下のお言葉に、憲法を空語にしない姿勢を学ぶ。


8月8日、午後3時。天皇陛下のお言葉を施設で利用者の皆様とともに拝聴しました。

 

象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉(全文)

 

戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。

私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。

本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 

即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。

 

そのような中,何年か前のことになりますが,2度の外科手術を受け,加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から,これから先,従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合,どのように身を処していくことが,国にとり,国民にとり,また,私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき,考えるようになりました。既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています。

 

私が天皇の位についてから,ほぼ28年,このかん私は,我が国における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共におこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井しせいの人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。

 

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重いもがりの行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀そうぎに関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。

 

始めにも述べましたように,憲法のもと,天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。

国民の理解を得られることを,切に願っています

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A major milestone year marking the 70th anniversary of the end of World War II has passed, and in two years we will be welcoming the 30th year of Heisei.

As I am now more than 80 years old and there are times when I feel various constraints such as in my physical fitness, in the last few years I have started to reflect on my years as the Emperor, and contemplate on my role and my duties as the Emperor in the days to come.

As we are in the midst of a rapidly aging society, I would like to talk to you today about what would be a desirable role of the Emperor in a time when the Emperor, too, becomes advanced in age. While, being in the position of the Emperor, I must refrain from making any specific comments on the existing Imperial system, I would like to tell you what I, as an individual, have been thinking about.

 

Ever since my accession to the throne, I have carried out the acts of the Emperor in matters of state, and at the same time I have spent my days searching for and contemplating on what is the desirable role of the Emperor, who is designated to be the symbol of the State by the Constitution of Japan. As one who has inherited a long tradition, I have always felt a deep sense of responsibility to protect this tradition. At the same time, in a nation and in a world which are constantly changing, I have continued to think to this day about how the Japanese Imperial Family can put its traditions to good use in the present age and be an active and inherent part of society, responding to the expectations of the people.

 

It was some years ago, after my two surgeries that I began to feel a decline in my fitness level because of my advancing age, and I started to think about the pending future, how I should conduct myself should it become difficult for me to carry out my heavy duties in the way I have been doing, and what would be best for the country, for the people, and also for the Imperial Family members who will follow after me. I am already 80 years old, and fortunately I am now in good health. However, when I consider that my fitness level is gradually declining, I am worried that it may become difficult for me to carry out my duties as the symbol of the State with my whole being as I have done until now.

 

I ascended to the throne approximately 28 years ago, and during these years, I have spent my days together with the people of Japan, sharing much of the joys as well as the sorrows that have happened in our country. I have considered that the first and foremost duty of the Emperor is to pray for peace and happiness of all the people. At the same time, I also believe that in some cases it is essential to stand by the people, listen to their voices, and be close to them in their thoughts. In order to carry out the duties of the Emperor as the symbol of the State and as a symbol of the unity of the people, the Emperor needs to seek from the people their understanding on the role of the symbol of the State. I think that likewise, there is need for the Emperor to have a deep awareness of his own role as the Emperor, deep understanding of the people, and willingness to nurture within himself the awareness of being with the people. In this regard, I have felt that my travels to various places throughout Japan, in particular, to remote places and islands, are important acts of the Emperor as the symbol of the State and I have carried them out in that spirit. In my travels throughout the country, which I have made together with the Empress, including the time when I was Crown Prince, I was made aware that wherever I went there were thousands of citizens who love their local community and with quiet dedication continue to support their community. With this awareness I was able to carry out the most important duties of the Emperor, to always think of the people and pray for the people, with deep respect and love for the people. That, I feel, has been a great blessing.

 

In coping with the aging of the Emperor, I think it is not possible to continue reducing perpetually the Emperor’s acts in matters of state and his duties as the symbol of the State. A Regency may be established to act in the place of the Emperor when the Emperor cannot fulfill his duties for reasons such as he is not yet of age or he is seriously ill. Even in such cases, however, it does not change the fact that the Emperor continues to be the Emperor till the end of his life, even though he is unable to fully carry out his duties as the Emperor.

When the Emperor has ill health and his condition becomes serious, I am concerned that, as we have seen in the past, society comes to a standstill and people’s lives are impacted in various ways. The practice in the Imperial Family has been that the death of the Emperor called for events of heavy mourning, continuing every day for two months, followed by funeral events which continue for one year. These various events occur simultaneously with events related to the new era, placing a very heavy strain on those involved in the events, in particular, the family left behind. It occurs to me from time to time to wonder whether it is possible to prevent such a situation.

 

As I said in the beginning, under the Constitution, the Emperor does not have powers related to government. Even under such circumstances, it is my hope that by thoroughly reflecting on our country’s long history of emperors, the Imperial Family can continue to be with the people at all times and can work together with the people to build the future of our country, and that the duties of the Emperor as the symbol of the State can continue steadily without a break. With this earnest wish, I have decided to make my thoughts known.

I sincerely hope for your understanding.

 

以上 宮内庁HPより引用
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多くのTVで解説がおこなわれており、TBS毎日では午後7時から9時まで特集が組まれていました。皇太子時代、美智子様とともに、孤児院では子供の目線になり、被災地では被災者と目線に合わせて正座して傾聴する姿勢、1964年の東京オリンピックの際に第二回パラリンピックを名誉総裁として努められ、その次の年からの全国身体障害者スポーツ大会のきっかけをつくっておられることが紹介されていました。その後、皇太子殿下として訪れた沖縄、又戦後50年の節目に始まった両陛下の慰霊の旅。長崎、広島、沖縄を経て、60年のサイパン、昨年のパラオに続き、71年を迎える今年、激戦地であったフィリピン戦地を訪れ祈りを続けておられる姿を改めて感じとることができました。

「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」「天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共におこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井しせいの人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。」

というお言葉や、これまでの行動に感じる事は、戦後の「日本国憲法」に定められた「象徴天皇」を「空語」にしない、実践の姿勢を一貫しておられる事ではないかと感じています。

今回語られた生前退位については、国民の意思を踏まえた上での国会での議論になるでしょう。真摯に現憲法を遵守し、象徴天皇への希求と日々の実践をされてこられた天皇陛下の姿勢を決して崩すことなく、その率直なお言葉を受け止めての真摯な議論が必要なのだと思います。

 

第10章 最高法規

 

 
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
 
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
 
 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
 
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
 
先ずは99条を誠実にお守りになり憲法を空語にしない姿勢を貫く天皇陛下。そしてこの99条に反し、参議院選挙で示された沖縄県民の民意に反しての高江のヘリパッドを強行し憲法破壊の壊憲を画策するアベ政府自民党。
先ず我が国の政治に携わる者は、このたびの天皇陛下のお言葉に憲法遵守の姿勢を学ぶべきであり、アベ総理、政府はなおさらだと強く感じるのです。

 


憲法草案 97条削除の問題 伝統、国柄、義務規定はいれないのが近代立憲主義国家では常識


伝統、国柄、義務規定はいれないのが近代立憲主義国家では通例。

憲法 97条を削除する憲法草案は、人権を基本的に最高法規で確保しないことを宣言しているようなもの。

このこと事は、以下の

参議院憲法審査会の水島朝穂先生の発言 をご覧頂ければ明快に論拠がわかります。

当日の議事録

http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/keika/img/pdf/189-270304.pdf

水島先生のレジュメ

http://www.asaho.com/jpn/bkno/2015/0316.html

伝統、国柄とかについては、韓国、英米独仏 近代立憲主義国の憲法には、国柄などははいっていない。
また97条については、

「11条は人権の総論として存在する。97条は人権の場所にではなく、最高法規の場所にあって、97条、98条、99条の3箇条によって憲法は最高法規としています。つまり97条は目的。つまり98条で最高法規としての目的は97条の人権の保障にあるのだ。だから公務員は憲法を尊重し擁護する義務があるのだ。という立て付けになっている。だぶった表現は11条と97条ある決して位置関係からすれば、無意味なものであるどころか、さきほどの言葉を借りれば、アイデンティティーの本質が97条の最高法規のトップ条項にある。ということを強調しておきたい。つまり97条を削除する憲法草案というのは人権を基本的に最高法規で確保しない憲法を考えているのか。と悪口がでてきてしまうような内容である。

昨日の日曜討論。

自民党稲田議員、そしてそれを受け日本の心、、、の和田議員が 「現行憲法11条と97条の条文が全くかぶっているため、削除したもの」といった論にたっているようであります。

これこそ勉強不足であります。みなさん誤魔化されないようにしましょう。


言論の府を暴力の場に変えたのがアベ自民党。言論の府を取り戻す7.10へ。


絶対僕らは忘れない。自民党議員が「人間かまくら」をつくって言論の府たる参議院を暴力の場にした事。

2015.9.18 アベ政治が破壊した言論の府を、主権者である私たちが取りもどす闘いが7.10参議院選挙。
この写真を投票の日まで覚えていましょう。皆様。

 
草島 進一さんの写真imgres-2imgres-1

舟山やすえとアベ政治を止める。6.08鶴岡決起大会の映像です。


舟山やすえ候補予定者

特別ゲスト 佐高 信 

じっくりご覧下さい。


5.3憲法集会の映像から


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5.3日憲法記念日 憲法集会が各地でおこなわれました。中でもこの有明防災公園でおこなわれた憲法集会は5万人(主催者発表)と最大のものです。以下、動画をリンクします。

特に、「戦争とは何か。常識では考えられない狂い」「戦争をはじめたら止めようがないこと」「9条の本質」を訴えた101歳むのたけじさんのスピーチは、心動かされます。

http://sogakari.com/?p=1510

1時間28分後がむのたけじさんのスピーチです。

この7月の参議院選挙が勝負です。

憲法違反だらけの安倍政治を許さない! 

 

 

 


憲法を考える。この動画は必見です。


憲法記念日。以下の動画はぜひ見ていただきたいです。

まずは安倍首相の現憲法についての考え方です。

https://www.youtube.com/watch?v=xQ266mp3yQo

憲法前文はみっともない? GHQ占領下の押しつけ論?

そこでご覧いただきたいのが以下 報道ステーションの特集です。

この特集では公職追放組の「押しつけ論」又、現安倍総理の「押しつけ憲法論」が完全に論破されています。

憲法第9条が誰の発案だったか。幣原総理 「私がマッカーサー元帥に申し上げ、、、」

ということでした。

そしてもう一つご覧いただきたいのがもう一つの報道ステーション映像

ヒトラーと安倍総理がダブって見えます。ワイマール憲法の民主主義国家ドイツがなぜヒトラー独裁を許したのか。当時の国家緊急権の悪用。そして全権委任法によって実現した合法的な独裁。

自民党会見草案の緊急事態条項「内閣は法律と同等の政令を規定することができる」についてワイマール憲法研究の権威 ドライヤー教授は、「ワイマール48条を思い起こさせる。内閣の一人の人間に利用される危険性があり

とても問題です。と述べている。民主主義の基本は「法の支配」で「人の支配」ではないということも明確にのべておられます。

この二つの映像は3月末で降版した古舘さんが残してくれた志の2本。

まとめとして、昨年、米沢で講演された伊藤真先生の講演の映像です。 

とても解りやすく明快です。この講演の中でも安倍総理とヒトラーとが類似していると暗にほのめかされています。

 

安倍独裁による立憲主義破壊、民主主義破壊に歯止めを! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明日は憲法記念日。改めて憲法を考える。


明日は憲法記念日です。

憲法の構造カラー1

1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法が施行され、皇居前広場では昭和天皇臨席の下、政府主催による「日本国憲法施行記念式典」が行われ、午後には帝国劇場憲法普及会芦田均会長)の主催による「新憲法施行記念祝賀会」が盛大に行われた。
そして1948年(昭和23年)に公布、施行された祝日法によって「憲法記念日」と制定された。と WIKIにあります。

憲法について、現在起きている事を踏まえつつ考えてみましょう。

 

安保法=戦争法施行。立憲主義とは

昨年の9月19日。安倍政権による安保法案が可決。

憲法違反(違憲)!と憲法学者のほとんどが指摘した安保法制=戦争法が強行採決されるという暴挙が国会で行われました。

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(写真。参議院特別委員会 自民党議員が議長を囲み強行採決)

 

そして、今年3月29日、安保法が施行されました。「戦争できない国が戦争できる国になった」ともいわれます。安倍総理は、更に総理在任中の憲法改正を検討していることを明らかにしています。

 

 

ここで「憲法」と立憲主義について、改めて考えてみましょう。

憲法は法ではありますが、法律ではありません。縛る相手が違うのです。

 憲法の構造カラー1

 

この図のように、法律は権力が国民の自由を制限して社会の秩序を維持するためのものです。しかし、憲法は国民が、国家権力を制限して国民個人の人権を保障するためのものです。日本国憲法では私達国民の義務として教育、勤労、納税の義務という三大義務は書いてあるあるものの、憲法の基本の役割は、主権者である私たち国民が政治家などに守らせる「命令書」なのです。

そして「権力の行使に憲法で歯止めをかける考え方」を「立憲主義」といいます。そもそもは、王政の時代、国王の横暴に歯止めをかけるために生まれたものですが、現代の民主主義社会でも、多数派による権力行使に歯止めを掛けるのが立憲主義です。国民に義務を課すのは法律の仕事。でも、それが行き過ぎにならないように憲法で国民の自由や人権を守る。これが立憲主義です。

安倍総理は、国会答弁で「憲法について、「国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、今は日本という国の形、そして理想と未来を語るものではないかと思います。」などと述べています。

この発言は全く憲法の本質をとらえておらず、立憲主義をゆがめる発言です。民主主義国家の政治でも、ヒトラー政権のユダヤ人大量虐殺など、間違いを犯した歴史があります。多数が常に正しいとは言えず、多数で決める事でも、少数の人権や自由を犯さないように国家権力を縛るのが憲法なのです。

在の日本国憲法は、先の大戦の反省から、国民個人の自由と人権を国全域にもたらす為と二度と戦争を引き起こさない為に定められました。人権尊重と戦争放棄を目的に、国民を主権者として定めています。

改憲を主張する自民党の憲法草案では、国民に新たに国防義務、家族助け合い義務など、10の義務を課す事になっています。国民の自由や人権を守る為に権力を縛るはずの憲法を、国家が国民を支配する道具にどんどん変質させようとしているのです。(図参照)

憲法と自民草案イラスト

戦後70年続いた立憲民主主義、平和国家である日本が、現憲法や立憲主義を否定する安倍政治によって破壊されようとしています。

緊急事態条項は危険!

自民党などからは、改憲論の中で「災害の時に必要」などとして「緊急事態条項」が提起されています。これはドイツのワイマール憲法下であってもてもヒトラーの独裁を許してしまった「国家緊急権」、更に「全権委任法」に類似するものです。第一、災害時に必要なのは権限を自治体首長など、現場に降ろすことであり、総理大臣に集中することではないことは災害現場での常識であり、私も経験的に分かります。国家権力拡大一辺倒の自民党草案。立憲主義を逸脱し人権を制約する独裁国家への道になりかねません。

 先般、戦争法廃案の法案を野党が提出しましたが、「議論を蒸し返す」と自民党、公明党などに審議も行わずに却下されました。全くとんでもない話です。

 

憲主義、民主主義を守り抜くために。
まずは、今夏の参議院選挙で安倍政治をストップをさせましょう。

 

 

 


憲法と法律との違いって? 立憲主義ってこういうこと?


憲法と「立憲主義」。

安倍総理は、在任中の憲法改正を考えていると3月3日、明らかにしました。

「憲法」。改めてちょっと考えてみましょう。

そもそも憲法って何でしょう? 法律と憲法ってどう違うのでしょう?

私自身も憲法については、中学、高校の「政治・経済」や大学一般教養などで学んできているはずなのですが、なんだか「法律の親分」のようにしかならってこなったのようにも思えます。皆さんはいかがでしょうか?

私は特にこの数年、伊藤真先生や、小林節先生の講演を聴き、著書を読む中で改めて、憲法と法律が全く別のものだと鮮明に解りました。

そこで、伊藤真先生の講演などを参考に、この絵を改めてつくってみました。

憲法の構造 のコピーまずは、この図です。

現在の日本国憲法は、先の大戦の反省を元に「二度と戦争を引き起こさない事と、国民個人の自由や人権を守るために定められました。

現在、私達国民は、法律を守る義務があります。しかしながら、基本的には憲法を守る義務はありません。それは、そもそも憲法は、国民が、国家権力が暴走しないように定めたルールブックだからです。この図で、法律は上から下のベクトルで、権力が国民を制限する。しかし、憲法は下から上のベクトルで、国民が、憲法によって国家権力を縛る。しかもその憲法はあらゆる法の最高法規として定められています。

憲法を守らなくてはならないのは、国家の権力をもつ政治家や公務員、天皇であり、(99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。) 全ての法律は最高法規である憲法を乗り越えてつくることができないとされています。

この、「全ての政治が憲法の下でおこなわれる」という事が「立憲主義」ということです。

しかし、今、「改憲」論を振りかざす安倍自民党が掲げている自民党憲法草案は下の絵の右側の構図です。

憲法と自民草案イラスト

国民が国家権力を縛る道具が憲法であるはずなのに、自民党草案では国民に様々な義務を押しつけようとしている。つまり、憲法を国民を更に縛る道具にしようとしているのです。

憲法学者の小林節先生はおっしゃっています。

この改正案の最も大きな不安は、「立憲主義が後退するのではないか」ということです。

「国家が国民に義務を押し付ける」ことは、日本国憲法の根本理念に反します。自民党は、憲法が何かをわかっていないのです。たとえば、酔っ払い運転の取り締まりを厳しくしたり、借りたお金を踏み倒す人を少なくしたりしようと思えば、国は刑法や民法を改正します。それと同じことを、憲法という根本法を改正してやろうとしているわけです。

 しかし、いわゆる「六法」と呼ばれているなかで、憲法とその他の法律(民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法)は、性格が全く違うもの。憲法は国民を規制するものではなく、権力者の横暴を規制する法規範なのです。しかし、日本人の多くは、憲法を単に民法や刑法のような法律の「親玉」くらいにしか思っていない。そこが問題なのです。」

今、私達は現在の日本国憲法の下で、政治を行う立憲民主主義国家、日本に暮らしています。立憲主義が破壊されれば専制主義、独裁国家への道となります。

一昨年の7月1日の集団的自衛権の行使容認を閣議決定で決めた憲法違反は、憲法で縛られる当人たちが解釈を変えた悪質な憲法違反

昨年9月19日の「安保法制=戦争法」の強行採決は、法律が憲法9条を超える憲法違反

国会議員の4分の1が求めても国会を開かない。これも憲法違反。

この3月で報道ステーション、ニュース23、クローズアップ現代のメインキャスターの方々が、続々とお辞めになる。そして高市大臣のまるで戦前の言論統制のような法解釈の発言については、海外メディアでも取り上げられているようですが、あるまじき言論封じであり、これも憲法違反と憲法学者から指摘されています。(立憲デモクラシーの見解を後に添付します。

憲法違反だらけの安倍政治。今の姿勢を見れば、改憲の目的が見えてくるようです。

 


 

 

                       2016年3月2日

放送規制問題に関する見解

立憲デモクラシーの会

Ⅰ 放送法の4条1項は、国内放送の番組は、いくつかの原則に即して編集されるべきことを求めている。その中には、「政治的に公平であること」(同項2号)および「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」(同項4号。「論点の多角的解明義務」と呼ばれる)が含まれる。

 テレビ局を含む放送事業者にも、憲法21条の規定する表現の自由は保障される。表現活動への規制が全く許されないわけではないが、表現の自由が民主的政治過程の不可欠の要素であること等から、表現活動の規制は慎重になされるべきであるし、とりわけ表現の内容に基づく規制は、原則として認められないと考えられている。

 第一に、表現の内容に基づく規制を政府が行う場合、特定の立場からの表現(政治的言論や宗教的宣伝)を抑圧・促進するという、不当な動機を隠している蓋然(がいぜん)性が高く、第二に、表現活動の内容に基づく規制は、言論の自由な流通と競争の過程を歪曲(わいきょく)する効果を持つからである。

 放送法が定める政治的公平性と論点の多角的解明の要請は、明らかに表現の内容に基づく規制である。しかし、放送法上のこうした表現の内容に基づく規制は、日本国憲法の下でも、一貫して合憲であるとの前提の下に運用されてきた。そして、新聞・雑誌・図書といった紙媒体のメディア(プリント・メディアと呼ばれる)と異なり、放送については特殊な規制が認められるとの考え方は、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国を含めて、多くの国々で採用されている。

 伝統的には、放送の二つの性格──放送の使用する周波数帯の稀少(きしょう)性と放送の特殊な社会的影響力(impact)──から、放送については特殊な規制が許されると考えられてきた。ただ、こうした伝統的な規制根拠論には、今日、さまざまな疑問が提起されている。第一に、技術の高度化にともなって放送メディアが増大するとともにきわめて多様化しており、すべての放送が同じように特殊な影響力を持つとも、インターネットをはじめとする他のメディアに比べて強い影響力を持つとも、言えなくなっている。また、テレビの総合編成のチャンネルに限っても、地上波衛星波を含めるとその数が総合編成の新聞の数に比べて稀少であるとは必ずしも言えない。

 さらに、そもそもの問題として、ある財が稀少であることは、その財を公的に配分しなければならないとか、使用法を公的に規制しなければならないことを必ずしも意味しない。市場で取引される財はすべて稀少であるし(だからこそ価格に基づいて取引される)、自他の身体や家財への損害をもたらさない限り、使用方法がとくに公的に規制されるわけでもない。

 こうした背景から、規制された放送と自由な新聞とを併存させることで、マスメディア全体が、社会に広く多様で豊かな情報を偏りなく提供する環境を整えるとの議論など、伝統的規制根拠に代わる新たな規制根拠を探る動きもあるが、稀少性と社会的影響力の点で他のメディアと区別が困難となった以上、放送固有の規制は撤廃し、表現の自由の基本原則に復帰すべきであるとの議論も有力である。放送規制の将来は、定まっているとは言い難い。

 

Ⅱ Ⅰで述べた議論は、日本に限らずリベラル・デモクラシーと言い得る国に一般的にあてはまる。これに加えて、国それぞれの特殊性もある。日本の特殊性は、放送法制の企画立案にあたる政府の官庁(総務省)が、同時に放送事業者に対する規制監督機関でもあるという点にある。アメリカやヨーロッパ諸国では、放送法制の企画・立案にあたるのは政府直属の官庁であるが、監督権限を行使するのは、政府から独立した立場にあり、政府の指揮命令を受けることなく独立して職権を行使する機関である。これは、放送メディアに対する規制権限の行使が特定の党派の利害に影響されないようにするための工夫である。

 そうした制度上の工夫がなされていない日本では、放送規制のうち、とりわけ番組内容にかかわる政治的公平性や論点の多角的解明義務について、果たして十全の法規範と考えてよいのか、という問題が議論されてきた。学界の通説は、放送事業者の自主規律の原則を定めるという色彩が極めて強いと考えざるを得ないというものである。

 放送法4条1項の条文は、そのままでは政治的公平性や論点の多角的解明という抽象的な要請を定めているにすぎず、具体的場面においてこの原則をどのように具体化すべきかは、ただちには判明しない。人によって、それこそ見解は多岐に分かれるであろう。それにもかかわらず、こうした抽象的原則を具体化した規定をあらかじめ設けることもなく、議会与党によって構成され連帯責任を負う内閣に属する総務大臣に指揮命令される形で放送内容への介入がなされるならば、放送事業者の表現活動が過度に萎縮することは免れないし、権限濫用(らんよう)のリスクも大きい。漠然とした放送法4条の文言のみを根拠として、政党政治からの独立性が担保されていない主務大臣が放送事業者に対して処分を行えば、適用上違憲との判断は免れがたいであろう。

 2016年2月8日の衆院予算委員会で、高市早苗総務大臣は、放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命ずる可能性に言及した。「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の反応もしないと約束するわけにいかない」と述べたと伝えられている。

 電波法76条は、条文上は放送法違反の場合に停波を命ずることができるようにも読めるが、憲法上の表現の自由の保障にかんがみるならば、放送法4条違反を停波の根拠として持ち出すことには躊躇(ちゅうちょ)があってしかるべきである。高市大臣は、政治的公平性に反する放送が繰り返された場合に限定することで、きわめて例外的な措置であることを示したつもりかも知れないが、公平性に反すると判断するのが政党政治家たる閣僚であるという深刻な問題は依然として残る。

 放送法自体、その1条2号で、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」を放送法の根本原則として掲げている。放送事業者の自律性の確保の重要性は、最高裁判所の先例も度々、これを強調してきた。このことも忘れてはならない。

 

Ⅲ さらに高市総務大臣は、「国論を二分する政治課題で一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに他の見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」を、政治的公平性に反する事例とした具体的に挙げたと伝えられている。国論が現に二分されている以上、一方のみの見解を報道し、他方の見解の存在を報道しないという選択は、実際上、想定不可能である。大臣が言わんとするのは、一方の見解のみを支持し、他方の見解を支持しないことが、政治的公平性に反するということであるとしか考えにくい。

 放送法4条が要求しているのは、党派政治の対立における公平性──不偏不党──であって、個々の政治的論点について、放送事業者が一定の立場を支持する報道をしてはならないということではない。論点の多角的解明義務に即して多様な立場を紹介した上で、特定の立場を放送事業者が支持することは、当然あり得る。これを否定することは、憲法21条違反である以前に、放送法の解釈として誤りを犯している。

 「国論を二分する政治課題」で一方の政治的見解のみを支持する内容を相当時間にわたって繰り返すことは、政治的公平性を求める放送法に違反すると高市大臣は主張するが、そこでの国論を二分する政治課題なるものが、違憲の疑いのきわめて強い法案を国会で可決・制定すべきか否かという論点であり、しかも、その違憲性が、日本国憲法の根幹にかかわる原理原則にかかわる場合はどうだろう。そこでも、単純・機械的に賛成論と反対論を紹介し、自分自身は何らの見解も示さないのが、報道機関たる放送事業者のあるべき態度であろうか。

 放送事業者のよって立つべき憲法自体が攻撃されているとき、放送事業者に対しても、憲法の敵と味方を単純・機械的に対等に扱うよう法的に強制すること、憲法の基本原理への攻撃をも、それを擁護する主張と対等・公平に扱うよう強制すべきだとの主張は、憲法の基本原理自体と齟齬(そご)を来す。

以上