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放送規制問題に関する立憲デモクラシーの会が出した見解


 立憲デモクラシーの会が出した見解(原文のまま)。

 

放送規制問題に関する見解

                   2016年3月2日

Ⅰ 放送法の4条1項は、国内放送の番組は、いくつかの原則に即して編集されるべきことを求めている。その中には、「政治的に公平であること」(同項2号)および「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」(同項4号。「論点の多角的解明義務」と呼ばれる)が含まれる。

 テレビ局を含む放送事業者にも、憲法21条の規定する表現の自由は保障される。表現活動への規制が全く許されないわけではないが、表現の自由が民主的政治過程の不可欠の要素であること等から、表現活動の規制は慎重になされるべきであるし、とりわけ表現の内容に基づく規制は、原則として認められないと考えられている。

 第一に、表現の内容に基づく規制を政府が行う場合、特定の立場からの表現(政治的言論や宗教的宣伝)を抑圧・促進するという、不当な動機を隠している蓋然(がいぜん)性が高く、第二に、表現活動の内容に基づく規制は、言論の自由な流通と競争の過程を歪曲(わいきょく)する効果を持つからである。

 放送法が定める政治的公平性と論点の多角的解明の要請は、明らかに表現の内容に基づく規制である。しかし、放送法上のこうした表現の内容に基づく規制は、日本国憲法の下でも、一貫して合憲であるとの前提の下に運用されてきた。そして、新聞・雑誌・図書といった紙媒体のメディア(プリント・メディアと呼ばれる)と異なり、放送については特殊な規制が認められるとの考え方は、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国を含めて、多くの国々で採用されている。

 伝統的には、放送の二つの性格──放送の使用する周波数帯の稀少(きしょう)性と放送の特殊な社会的影響力(impact)──から、放送については特殊な規制が許されると考えられてきた。ただ、こうした伝統的な規制根拠論には、今日、さまざまな疑問が提起されている。第一に、技術の高度化にともなって放送メディアが増大するとともにきわめて多様化しており、すべての放送が同じように特殊な影響力を持つとも、インターネットをはじめとする他のメディアに比べて強い影響力を持つとも、言えなくなっている。また、テレビの総合編成のチャンネルに限っても、地上波衛星波を含めるとその数が総合編成の新聞の数に比べて稀少であるとは必ずしも言えない。

 さらに、そもそもの問題として、ある財が稀少であることは、その財を公的に配分しなければならないとか、使用法を公的に規制しなければならないことを必ずしも意味しない。市場で取引される財はすべて稀少であるし(だからこそ価格に基づいて取引される)、自他の身体や家財への損害をもたらさない限り、使用方法がとくに公的に規制されるわけでもない。

 こうした背景から、規制された放送と自由な新聞とを併存させることで、マスメディア全体が、社会に広く多様で豊かな情報を偏りなく提供する環境を整えるとの議論など、伝統的規制根拠に代わる新たな規制根拠を探る動きもあるが、稀少性と社会的影響力の点で他のメディアと区別が困難となった以上、放送固有の規制は撤廃し、表現の自由の基本原則に復帰すべきであるとの議論も有力である。放送規制の将来は、定まっているとは言い難い。

 

Ⅱ Ⅰで述べた議論は、日本に限らずリベラル・デモクラシーと言い得る国に一般的にあてはまる。これに加えて、国それぞれの特殊性もある。日本の特殊性は、放送法制の企画立案にあたる政府の官庁(総務省)が、同時に放送事業者に対する規制監督機関でもあるという点にある。アメリカやヨーロッパ諸国では、放送法制の企画・立案にあたるのは政府直属の官庁であるが、監督権限を行使するのは、政府から独立した立場にあり、政府の指揮命令を受けることなく独立して職権を行使する機関である。これは、放送メディアに対する規制権限の行使が特定の党派の利害に影響されないようにするための工夫である。

 そうした制度上の工夫がなされていない日本では、放送規制のうち、とりわけ番組内容にかかわる政治的公平性や論点の多角的解明義務について、果たして十全の法規範と考えてよいのか、という問題が議論されてきた。学界の通説は、放送事業者の自主規律の原則を定めるという色彩が極めて強いと考えざるを得ないというものである。

 放送法4条1項の条文は、そのままでは政治的公平性や論点の多角的解明という抽象的な要請を定めているにすぎず、具体的場面においてこの原則をどのように具体化すべきかは、ただちには判明しない。人によって、それこそ見解は多岐に分かれるであろう。それにもかかわらず、こうした抽象的原則を具体化した規定をあらかじめ設けることもなく、議会与党によって構成され連帯責任を負う内閣に属する総務大臣に指揮命令される形で放送内容への介入がなされるならば、放送事業者の表現活動が過度に萎縮することは免れないし、権限濫用(らんよう)のリスクも大きい。漠然とした放送法4条の文言のみを根拠として、政党政治からの独立性が担保されていない主務大臣が放送事業者に対して処分を行えば、適用上違憲との判断は免れがたいであろう。

 2016年2月8日の衆院予算委員会で、高市早苗総務大臣は、放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命ずる可能性に言及した。「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の反応もしないと約束するわけにいかない」と述べたと伝えられている。

 電波法76条は、条文上は放送法違反の場合に停波を命ずることができるようにも読めるが、憲法上の表現の自由の保障にかんがみるならば、放送法4条違反を停波の根拠として持ち出すことには躊躇(ちゅうちょ)があってしかるべきである。高市大臣は、政治的公平性に反する放送が繰り返された場合に限定することで、きわめて例外的な措置であることを示したつもりかも知れないが、公平性に反すると判断するのが政党政治家たる閣僚であるという深刻な問題は依然として残る。

 放送法自体、その1条2号で、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」を放送法の根本原則として掲げている。放送事業者の自律性の確保の重要性は、最高裁判所の先例も度々、これを強調してきた。このことも忘れてはならない。

 

Ⅲ さらに高市総務大臣は、「国論を二分する政治課題で一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに他の見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」を、政治的公平性に反する事例とした具体的に挙げたと伝えられている。国論が現に二分されている以上、一方のみの見解を報道し、他方の見解の存在を報道しないという選択は、実際上、想定不可能である。大臣が言わんとするのは、一方の見解のみを支持し、他方の見解を支持しないことが、政治的公平性に反するということであるとしか考えにくい。

 放送法4条が要求しているのは、党派政治の対立における公平性──不偏不党──であって、個々の政治的論点について、放送事業者が一定の立場を支持する報道をしてはならないということではない。論点の多角的解明義務に即して多様な立場を紹介した上で、特定の立場を放送事業者が支持することは、当然あり得る。これを否定することは、憲法21条違反である以前に、放送法の解釈として誤りを犯している。

 「国論を二分する政治課題」で一方の政治的見解のみを支持する内容を相当時間にわたって繰り返すことは、政治的公平性を求める放送法に違反すると高市大臣は主張するが、そこでの国論を二分する政治課題なるものが、違憲の疑いのきわめて強い法案を国会で可決・制定すべきか否かという論点であり、しかも、その違憲性が、日本国憲法の根幹にかかわる原理原則にかかわる場合はどうだろう。そこでも、単純・機械的に賛成論と反対論を紹介し、自分自身は何らの見解も示さないのが、報道機関たる放送事業者のあるべき態度であろうか。

 放送事業者のよって立つべき憲法自体が攻撃されているとき、放送事業者に対しても、憲法の敵と味方を単純・機械的に対等に扱うよう法的に強制すること、憲法の基本原理への攻撃をも、それを擁護する主張と対等・公平に扱うよう強制すべきだとの主張は、憲法の基本原理自体と齟齬(そご)を来す。